明治二年 初夏

「信吉(しんきち)。高嶋屋さんのお嬢さんが来はったえ」
「すぐに参ります」
 主人に言われて、信吉は整理していた巻物を戻してすぐに見本帳を手に取り、急いだ。
「これはこれは、よぅいらっしゃいました」
「こんにちは」
 お得意さんの娘はにこやかに微笑み、あれこれとお喋りをしながら信吉の手から見本帳を取り、次々に捲っていく。
「麻の着物で、新しいのがひとつ欲しいんよ」
「これからの季節は、麻がよぅございますものね」
「そうよね。それから帯も欲しいわぁ」
「お着物は、お色や柄はどんなものがよろしいですか」
「えぇとねぇ。そうね、色はこういうんがええかな」
「こちらですか」
「そう。浅葱色」
「涼やかでよぅございますな」
 相槌を打ちながら、信吉の脳裏にはふと余計なことが浮かんでいた。そこへ丁稚の行ゆきまつ松が茶を運んでくる。
「お待たせいたしました」
「まぁ、おおきに」
 娘は上機嫌に行松にも声をかけてくれ、行松は恐縮した面持ちで固まっている。
「行松、ご苦労さん。この見本帳をしまっておいてくれ」
「へぇ」
 信吉の言葉で金縛りが解けたようになり、信吉に指差された、娘がこれは違うと放り投げた見本帳と盆を抱えて、一礼をして去っていく。 
 今は手代となった信吉が、まだ信松と呼ばれていた丁稚時代。浅葱色の羽織を着て京の都を歩いていた人たちがいた。
 ――新選組。
 その中には、信吉が知っている人もいた。時々使いへ行かされた、宿屋の若旦那。あの人は宿屋が火事で焼けて身内も亡くしてしまってから、何を思ったか新選組に入隊してしまったのだ。
 新選組をよく思わない人間も多かった中、あの人は新選組に恩義があるのだと言って、壬生浪と蔑む大人たちの真似をしていた自分に優しい目をして語ってくれた。あの日から、信吉の中で新選組に対する見方が少しだけ変わった。
「なぁ、この帯はどうやろうか。この着物に合いますやろか」
 話しかけられて、我に返る。
「そうどすな。よろしいと思います」
「でもちょっと私のような娘っ子にはおとなしすぎて似合わないかもしれへんね」
「いえいえ、そんなことはあらしまへん。お嬢様のようなお若い方が着てこそ映える色味ですよ」
「あら、そうかしら。そうかもしれないわね」
 機嫌良さ気にああでもない、こうでもないと選んでいる娘に適度に相槌や助言をしながら、信吉はあの若旦那はどうなっただろうかと考える。
 先だって、箱館の五稜郭に立てこもっていた旧幕府軍が遂にに負けたという報が伝わった。箱館まで戦った兵の中には新選組もいたと言う。新選組副長だった土方歳三は戦死したそうだ。新選組隊士ら旧幕府軍で生き残った者は捕えられ、近々江戸改め東京へ連れてこられるという噂も聞いた。
 しかしもう東軍と西軍の戦闘のことなど、そう言えばやっていただろうかというぐらいの感覚だった。信吉達の日常には関係がない。箱館まで戦った隊士の中に、あの若旦那が含まれていたかもわからない。
 そもそも、新選組の中でなんと名乗っていたかも知らないし、途中で脱退したかもしれない。或いは、それ以前に命を落としてた可能性もある。
「じゃあ、これとこれと、あとはこれかな」
 娘が見本帳から幾つか選び出した。
「流石お嬢様、お目が高い」
 おべんちゃらを言いながら、選ばれた布地を確認していく。
「では一時(いっとき)以内に反物をお持ちします」
「えぇ。お母はんと待ってるさかいに」
「かしこまりました」
 店の外まで出て娘ら一行を見送ると、信吉は中へ取って返した。これから丁稚に手伝わせて高嶋屋まで赴き、娘とその母親らを相手に実際に反物を見てもらう。そこからやっと注文の運びになる。
 彼女が選んだ反物には、先ほど話していた浅葱色ものも含まれていた。
 この色の羽織を着てこの町を歩いていた隊士たち。当時信吉がいた太物屋の主人はどちらかというと長州贔屓で、何かと言えば壬生浪に対して不満を募らせていた。武士が刀を帯びてはいても抜くことは無い時代が長く続いていた中で、志士たちが天誅をし、彼らがそれを捕縛した。
 刀が抜かれ、血が流れることを、よく思わないのは当然だ。だが子供だった信松は、直接に新選組に親切にされたことも、迷惑をかけられたこともなかった。一番近かったのが、新選組に恩義を感じ、入隊したあの若旦那、あの人が信吉にとって一番近い『新選組』の印象である。
 ――私は、確かに、長州の人らがそんな恐ろしいことしはるなんて思えへんけど、新選組の人らがそんな嘘つきはるようにも思われへんのや。
 そう言って頭を撫でてくれたことがあった。あれはそう、池田屋の後だったか。主人や番頭らに失敗しては殴られていた丁稚時代に、あの人の手は大きくて柔らかかった。
 しかし、思えばあの時の若旦那は、今の自分と幾つも変わらぬ歳だったのではあるまいか。目まぐるしく変わっていく中で、年号も明治と改められ、江戸は東京になった。長州や薩摩ら新政府軍らが中心となり、この国の政治はどんどん変わっていった。
 この変化の流れは信吉の傍らを過ぎていった。あの若旦那は、その流れの本流に自ら飛び込み、流されていったのだ。一体、どこまで流されていったのか。
「おぅい、行松」
 と丁稚を呼んだ。まず兎に角、目の前の仕事をこなすことだ。自分が選んだのは、都を守ることでも幕府の下で働くことでもなく、この店で番頭を目指すことである。
 飛んできた行松に反物を運ばせながら、あの人の無事を調べる術はあるのだろうかとふと思いつく。もし無事だったら自分はどうするだろう。どんなことを話せるのだろか。彼は、何と言うのだろうかと考える。

切手のない手紙 #4