朔 ― はじまり ―

「悪い、ちょっと一息入れさせて」
 保弘(やすひろ)は耕市(こういち)に断って、先ほど差し入れてもらった缶コーヒーを足元から拾い上げる。まだ温かい。プルタブを起こして一口、二口と飲む。舌先が熱さで痺れるようだ。肩から下げたままのギター越しに、缶を握って指を温める。とても寒い。
 冬の路上ライブで一番きついのは、この寒さだろう。耕市も蓋を開けないまま缶を両手に握りながら、辺りの様子を窺って言った。
「どうする」
「そうだなぁ。お客さんいなくなっちゃったな」
 常連の女子高生たちが賑やかに去った後、つられるように数人の人だかりが千切れていき、今は遠くからなんとなく眺めている人がいる程度だ。いい加減腹も減ってきた。
「今日はそろそろ帰るか」
「そうだな」
 片付けようとすると、「あれ、もう終わっちゃうの」と離れたところから声がかかった。見ると、かなり酔いが回った様子のサラリーマンが四人。「二曲前から聴いてたんだよ。おにいちゃんたち歌うまいねぇ」
「ありがとうございます」
 耕市がにこやかに応じる。以前酔っ払いに絡まれた経験があるので、多少警戒しつつ片付けを進める。
「もうちょっと歌ってよ」
「いやもう指が悴んじゃって」
「じゃあこれからおれの知り合いの店で飲むんだけど、そこで歌ってよ」
「えっ」
「奢ってあげるから行こう行こう」
 四人に囲まれてそのままぐいぐい押されてしまう。保弘と耕市は目を合わせて苦笑いした。どうしたものかなと思いながら歩いていると、思いの外すぐに目的地に着いた。ミュージックバーI Wishと書かれたシンプルな看板がかけてある。重厚な木の扉が開かれると、ふわりと暖かい空気が体を包んだ。
「いらっしゃい。ってなんだ、中さんかよ」
 髭を蓄えた、如何にも若いころ音楽をやっていましたという雰囲気のマスターが、先頭に立って歩いていた男の顔を見て苦笑いする。
「どうしたの、若い子連れて」
「えへへー、駅前で歌ってたから拉致ってきちゃった」
「坂野さんこの子たちうまいんだよ。もっと聴きたいって言ったら寒いから帰るっていうから連れて来ちゃった」
「なにか出してあげてよ」
 どやどやとカウンターの椅子に荷物を置いて、男たちが座る。呆気にとられている保弘と耕市に、坂野が笑いかけた。
「酒飲める? 未成年じゃないよね」
「はい、違います」
「じゃあ取り敢えず駆けつけ一杯」
 目の前にビールジョッキが置かれて、保弘と耕市は戸惑いつつ坂野を見た。
「この人たちの奢りだから気にしないで。今何か温かいもの出すからね」
 笑顔でこう言われ、ふたりはおずおずとカウンターの丸椅子に腰を落ち着ける。
「お言葉に甘えて」「いただきます」
 二人ともビールに口をつける。久し振りに飲むビールはうまかった。焼き鳥が出されて熱々を頬張り、小腹が満たされたところで歌え歌えと中たちに囃し立てられ、店内の奥にあるステージに立った。
「ええと、本当に宜しいのでしょうか」
 耕市がマイクを通して言うと、坂野や中たち以外の客も拍手してくれる。
「はじめまして。gems といいます」
「よし、じゃあ何やる?」
 マイクから離れて保弘が問い、
「まずは名刺代わりに」
「では、まずは聴いてください、”The baby is a real gem”」
「いよっ、待ってました!」
 中の掛け声に笑いつつも、三曲演奏を終えたところで
「はい、ピザが焼けたから食べて食べて」
 坂野に呼び戻されて、二人はステージのギタースタンドにギターを置き、拍手を貰いながらカウンターへ戻った。
「坂野さんのマルガリータはうまいよ」
「ビールなくなりそうじゃないか。次は何飲む?」
「遠慮しなくていいよ本当に奢りだから」
 二人は勧められるままに腹いっぱい飲み食いさせてもらい、更に数曲演奏させてもらった上チップまで貰ってしまった。出してもらった食べ物を平らげて荷物をまとめ、礼を言って帰ろうとすると、坂野に言われた。
「君たち、良かったらまたおいでよ」
「はい、是非。本当に美味しかったです」
「あぁ、そうじゃなくて。いや勿論来てくれたら嬉しいけどさ」
 笑って、名刺を二人それぞれに手渡す。
「また演や ってよ。ちゃんとギャラ出すから」 
「本当ですか」「来てもいいんですか?」
 坂野は笑顔で言った。
「取り敢えず今度連絡頂戴よ。詳細はその時。じゃあまたね。気をつけて」「はい。今日はありがとうございました」
 ふたりは深々と頭を下げて、店の外へ出た。雲ひとつない夜空に星が瞬いていた。
「そう言えば今日は新月だったな」
 保弘が言い、そうなんだと耕市が呟く。
「やるよな」
「勿論。折角のチャンスだろ」 
 耕市はいひひと嬉しそうに笑う。
「今日はCDも全然売れないし散々かと思ったけど、すげー良かったな」
「だな。頑張ろうぜ」
 保弘が右手を掲げ、耕市がそこに右掌をぱちんと打ち鳴らす。
「おう」
 凍るような寒さも、今は感じなかった。

切手のない手紙 #1