それぞれの場所

 夜の道は、全ての輪郭がぼうっとぼやけて闇に溶けていくように感じる。その中にぽつぽつと浮かび上がる光。街灯。民家の窓明かり。一瞬で通り過ぎていく風景の中に、幾つもの物語がある。置き忘れられた三輪車。まだ帰ってこない誰かの為に、点けられたままの玄関の灯り。幾つもの光の、それぞれの下に街があって、人がいる。
 旅に出て知らない街を見ていると、そんな当たり前のことに気付かされる。ふと。なぜだかすごく、切なくなる。みんな生きているんだ。それぞれの場所で、それぞれの物語を。
 こう思いたいから、僕は旅が好きなのだと思う。帰り着いたキャンプ場にバイクを止めて、張っておいた小さなテントに潜り込むと、そんなことを考えながら丸くなって眠った。
 明け方近く。はっと目を覚ます。髪が少し濡れていた。テントの雨漏りだろうかと見回し、飛び起きる。
「床上浸水かよ」
 色んな物がひたひたと雨水に濡れていく。僕は慌てて荷物をまとめると、外に出た。薄暗く、厚い雨雲から雨がばらばらと落ちてきていた。足あしもと下で、土が吸い込みきれない雨水がばちゃばちゃと音をたてる。手早くテントを畳み、差し当たりキャンプ場の管理事務所のある棟へ向う。入口の所で、丁度同じタイミングで、ずぶ濡れで駆け込んできた人と目があった。「……参りましたね」
 苦笑いで声をかけてくる。
「ほんとですよね。あの、テントですか、バンガローですか」と訊いてみると、
「テントです。バイクでツーリングで」と答えが返ってきた。
「僕もなんですよ」
 そのまま一緒に中へ入る。事務所は人でごった返し、雨の匂いが充満していた。畳の大部屋を廊下から覗くと、皆じっと置いてあるテレビに見入っている。画面には台風並に発達した低気圧の影響で大荒れに荒れる各地の様子が、次々に映し出されていた。
 風雨はどんどん強くなり、窓ががたがたと揺れる。びゅうびゅうという唸りが壁の外を這い、遠雷まで聞こえ始めた。
 コインシャワーを覗いてみたが、考えることは皆同じらしい。もう少し空す くまで待つことにする。取り敢えずタオルで拭きつつ、大部屋の隅に腰を落ち着ける。さっきの人が、セルフサービスのお茶を取って来て僕にも渡してくれた。
「ありがとうございます」
 貰った紙コップは小さく薄くて、持つのも大変なくらい熱かったけれど、冷え切った体にはとても旨かった。
「すっかり冷えちゃいましたね」
 言って、ぐっしょり肌に貼り付いた半袖のシャツを引っ張っている。そして
「おれ、渋谷です」
 と右手を差し出して来た。
 一瞬戸惑ったが、僕も右手を出して握る。
「沢村です」
 軽く頭を下げて自己紹介する。
 いつか大学の心理学の講義で 、握手で気持ちが通じやすくなると聞いたことを、ぼんやりと思い出した。
「沢村さんは今日どうする予定だったんですか」
「僕は、朝一で小樽方面へ行くつもりだったんですけど」
「そうかぁ。おれは元々ここでもう一泊するつもりではいたんですけどね」
 僕たちは互いのことやバイクのことなど暫く話し込んで、やっとシャワーを浴び終えた頃には、外は嘘のように晴れ渡っていた。
 予定通り出掛けるという渋谷さんに、僕も着いていくことにした。元々、きっちり予定をたてた旅でもないのだ。

 向かったのは、渓谷だった。国道から外れて入った道はどんどん細くなり、終いには砂利道になる。地面には所々に大きな水溜りがあってかなり運転はし辛かったが、景色は最高だった。川に沿って進んでいく途中に立て看板があって、『鳥地獄』とか『屏風崖』とか、色々な名前が書いてある。
「鳥崎八景っていうらしいですよ」
 渋谷さんがヘルメット越しに叫んで寄越した。二股に分かれた滝や、大きな岩。大きなダム湖。橋。そして、行き着いたところは見事な滝だった。切り立った森から吹き出しているように見えた。黒い岩を伝い、木々の葉を飛沫で濡らしながら白く輝く。小さな虹がかかっていた。
「アイヌの人達も『ポロソー』、大きな滝って呼んでいたらしいですよ」
 と言うので、僕は振り向いた。眩しそうに目を細めていた渋谷さんは、気づいて微笑んだ。
 僕らはすっかり打ち解けて、他にもあちこち回った後キャンプ場へ戻った。地面はやはりまだ濡れていたので、一番安いバンガローを二人で借りることにする。
 陽がようやく落ちようとしていた。
「今日は楽しかったです。僕正直言ってここは通過するだけの予定だったんですけど、面白かったです」
「おれごときのナビで喜んで頂けたなら何より」
 渋谷さんはにこにこと言った。
「晩飯どうしましょうか」
「パーッとやれる物がいいよね。折角ふたりなんだし。事務所で肉とか売ってくれるそうだから、焼肉でもしようか」
「それいいですね」
 僕たちは売店で野菜や肉、酒などを買い込み、鉄板も借りてきた。熱した上に油を敷き具材を乗せ、よく冷えた缶ビールのプルタブを起こす。
「じゃあ、乾杯」「乾杯!」
 涼しい北国の夏は心地よく、苦い泡が一日走り回った喉を潤してくれる。焼ける端から食べては飲んだ。僕たちは程よく酔っ払い、取り留めのない話をして笑い合い、夜更け過ぎにベッドでゆっくりと眠った。
 翌朝。連れ立ってキャンプ場を出た。途中の道の駅でルートを話し合い、長万部近くの国道で別れることにする。渋谷さんのバイクがウィンカーを出し右折レーンに車線を変更する。丁度信号が赤になったので、暫く並ぶことになった。互いにバイザーをあげて、
「じゃ、気をつけて」「またどこかで」
 と言い合う。
 信号が青に変わる。渋谷さんが片手を上げて、すっと曲がっていく。僕は直進する。
 ミラー越しに、もう一度手をあげる渋谷さんが見えた。見えるかわからないが、僕も手を大きく振る。そして僕は、バイザーを下ろして視線を前に戻す。僕の向う先へ。たくさんの思い出を抱えて。

切手のない手紙 #2