朔 ― はじまり ―

「悪い、ちょっと一息入れさせて」
 保弘(やすひろ)は耕市(こういち)に断って、先ほど差し入れてもらった缶コーヒーを足元から拾い上げる。まだ温かい。プルタブを起こして一口、二口と飲む。舌先が熱さで痺れるようだ。肩から下げたままのギター越しに、缶を握って指を温める。とても寒い。
 冬の路上ライブで一番きついのは、この寒さだろう。耕市も蓋を開けないまま缶を両手に握りながら、辺りの様子を窺って言った。
「どうする」
「そうだなぁ。お客さんいなくなっちゃったな」
 常連の女子高生たちが賑やかに去った後、つられるように数人の人だかりが千切れていき、今は遠くからなんとなく眺めている人がいる程度だ。いい加減腹も減ってきた。
「今日はそろそろ帰るか」
「そうだな」
 片付けようとすると、「あれ、もう終わっちゃうの」と離れたところから声がかかった。見ると、かなり酔いが回った様子のサラリーマンが四人。「二曲前から聴いてたんだよ。おにいちゃんたち歌うまいねぇ」
「ありがとうございます」
 耕市がにこやかに応じる。以前酔っ払いに絡まれた経験があるので、多少警戒しつつ片付けを進める。
「もうちょっと歌ってよ」
「いやもう指が悴んじゃって」
「じゃあこれからおれの知り合いの店で飲むんだけど、そこで歌ってよ」
「えっ」
「奢ってあげるから行こう行こう」
 四人に囲まれてそのままぐいぐい押されてしまう。保弘と耕市は目を合わせて苦笑いした。どうしたものかなと思いながら歩いていると、思いの外すぐに目的地に着いた。ミュージックバーI Wishと書かれたシンプルな看板がかけてある。重厚な木の扉が開かれると、ふわりと暖かい空気が体を包んだ。
「いらっしゃい。ってなんだ、中さんかよ」
 髭を蓄えた、如何にも若いころ音楽をやっていましたという雰囲気のマスターが、先頭に立って歩いていた男の顔を見て苦笑いする。
「どうしたの、若い子連れて」
「えへへー、駅前で歌ってたから拉致ってきちゃった」
「坂野さんこの子たちうまいんだよ。もっと聴きたいって言ったら寒いから帰るっていうから連れて来ちゃった」
「なにか出してあげてよ」
 どやどやとカウンターの椅子に荷物を置いて、男たちが座る。呆気にとられている保弘と耕市に、坂野が笑いかけた。
「酒飲める? 未成年じゃないよね」
「はい、違います」
「じゃあ取り敢えず駆けつけ一杯」
 目の前にビールジョッキが置かれて、保弘と耕市は戸惑いつつ坂野を見た。
「この人たちの奢りだから気にしないで。今何か温かいもの出すからね」
 笑顔でこう言われ、ふたりはおずおずとカウンターの丸椅子に腰を落ち着ける。
「お言葉に甘えて」「いただきます」
 二人ともビールに口をつける。久し振りに飲むビールはうまかった。焼き鳥が出されて熱々を頬張り、小腹が満たされたところで歌え歌えと中たちに囃し立てられ、店内の奥にあるステージに立った。
「ええと、本当に宜しいのでしょうか」
 耕市がマイクを通して言うと、坂野や中たち以外の客も拍手してくれる。
「はじめまして。gems といいます」
「よし、じゃあ何やる?」
 マイクから離れて保弘が問い、
「まずは名刺代わりに」
「では、まずは聴いてください、”The baby is a real gem”」
「いよっ、待ってました!」
 中の掛け声に笑いつつも、三曲演奏を終えたところで
「はい、ピザが焼けたから食べて食べて」
 坂野に呼び戻されて、二人はステージのギタースタンドにギターを置き、拍手を貰いながらカウンターへ戻った。
「坂野さんのマルガリータはうまいよ」
「ビールなくなりそうじゃないか。次は何飲む?」
「遠慮しなくていいよ本当に奢りだから」
 二人は勧められるままに腹いっぱい飲み食いさせてもらい、更に数曲演奏させてもらった上チップまで貰ってしまった。出してもらった食べ物を平らげて荷物をまとめ、礼を言って帰ろうとすると、坂野に言われた。
「君たち、良かったらまたおいでよ」
「はい、是非。本当に美味しかったです」
「あぁ、そうじゃなくて。いや勿論来てくれたら嬉しいけどさ」
 笑って、名刺を二人それぞれに手渡す。
「また演や ってよ。ちゃんとギャラ出すから」 
「本当ですか」「来てもいいんですか?」
 坂野は笑顔で言った。
「取り敢えず今度連絡頂戴よ。詳細はその時。じゃあまたね。気をつけて」「はい。今日はありがとうございました」
 ふたりは深々と頭を下げて、店の外へ出た。雲ひとつない夜空に星が瞬いていた。
「そう言えば今日は新月だったな」
 保弘が言い、そうなんだと耕市が呟く。
「やるよな」
「勿論。折角のチャンスだろ」 
 耕市はいひひと嬉しそうに笑う。
「今日はCDも全然売れないし散々かと思ったけど、すげー良かったな」
「だな。頑張ろうぜ」
 保弘が右手を掲げ、耕市がそこに右掌をぱちんと打ち鳴らす。
「おう」
 凍るような寒さも、今は感じなかった。

切手のない手紙 #1

それぞれの場所

 夜の道は、全ての輪郭がぼうっとぼやけて闇に溶けていくように感じる。その中にぽつぽつと浮かび上がる光。街灯。民家の窓明かり。一瞬で通り過ぎていく風景の中に、幾つもの物語がある。置き忘れられた三輪車。まだ帰ってこない誰かの為に、点けられたままの玄関の灯り。幾つもの光の、それぞれの下に街があって、人がいる。
 旅に出て知らない街を見ていると、そんな当たり前のことに気付かされる。ふと。なぜだかすごく、切なくなる。みんな生きているんだ。それぞれの場所で、それぞれの物語を。
 こう思いたいから、僕は旅が好きなのだと思う。帰り着いたキャンプ場にバイクを止めて、張っておいた小さなテントに潜り込むと、そんなことを考えながら丸くなって眠った。
 明け方近く。はっと目を覚ます。髪が少し濡れていた。テントの雨漏りだろうかと見回し、飛び起きる。
「床上浸水かよ」
 色んな物がひたひたと雨水に濡れていく。僕は慌てて荷物をまとめると、外に出た。薄暗く、厚い雨雲から雨がばらばらと落ちてきていた。足あしもと下で、土が吸い込みきれない雨水がばちゃばちゃと音をたてる。手早くテントを畳み、差し当たりキャンプ場の管理事務所のある棟へ向う。入口の所で、丁度同じタイミングで、ずぶ濡れで駆け込んできた人と目があった。「……参りましたね」
 苦笑いで声をかけてくる。
「ほんとですよね。あの、テントですか、バンガローですか」と訊いてみると、
「テントです。バイクでツーリングで」と答えが返ってきた。
「僕もなんですよ」
 そのまま一緒に中へ入る。事務所は人でごった返し、雨の匂いが充満していた。畳の大部屋を廊下から覗くと、皆じっと置いてあるテレビに見入っている。画面には台風並に発達した低気圧の影響で大荒れに荒れる各地の様子が、次々に映し出されていた。
 風雨はどんどん強くなり、窓ががたがたと揺れる。びゅうびゅうという唸りが壁の外を這い、遠雷まで聞こえ始めた。
 コインシャワーを覗いてみたが、考えることは皆同じらしい。もう少し空す くまで待つことにする。取り敢えずタオルで拭きつつ、大部屋の隅に腰を落ち着ける。さっきの人が、セルフサービスのお茶を取って来て僕にも渡してくれた。
「ありがとうございます」
 貰った紙コップは小さく薄くて、持つのも大変なくらい熱かったけれど、冷え切った体にはとても旨かった。
「すっかり冷えちゃいましたね」
 言って、ぐっしょり肌に貼り付いた半袖のシャツを引っ張っている。そして
「おれ、渋谷です」
 と右手を差し出して来た。
 一瞬戸惑ったが、僕も右手を出して握る。
「沢村です」
 軽く頭を下げて自己紹介する。
 いつか大学の心理学の講義で 、握手で気持ちが通じやすくなると聞いたことを、ぼんやりと思い出した。
「沢村さんは今日どうする予定だったんですか」
「僕は、朝一で小樽方面へ行くつもりだったんですけど」
「そうかぁ。おれは元々ここでもう一泊するつもりではいたんですけどね」
 僕たちは互いのことやバイクのことなど暫く話し込んで、やっとシャワーを浴び終えた頃には、外は嘘のように晴れ渡っていた。
 予定通り出掛けるという渋谷さんに、僕も着いていくことにした。元々、きっちり予定をたてた旅でもないのだ。

 向かったのは、渓谷だった。国道から外れて入った道はどんどん細くなり、終いには砂利道になる。地面には所々に大きな水溜りがあってかなり運転はし辛かったが、景色は最高だった。川に沿って進んでいく途中に立て看板があって、『鳥地獄』とか『屏風崖』とか、色々な名前が書いてある。
「鳥崎八景っていうらしいですよ」
 渋谷さんがヘルメット越しに叫んで寄越した。二股に分かれた滝や、大きな岩。大きなダム湖。橋。そして、行き着いたところは見事な滝だった。切り立った森から吹き出しているように見えた。黒い岩を伝い、木々の葉を飛沫で濡らしながら白く輝く。小さな虹がかかっていた。
「アイヌの人達も『ポロソー』、大きな滝って呼んでいたらしいですよ」
 と言うので、僕は振り向いた。眩しそうに目を細めていた渋谷さんは、気づいて微笑んだ。
 僕らはすっかり打ち解けて、他にもあちこち回った後キャンプ場へ戻った。地面はやはりまだ濡れていたので、一番安いバンガローを二人で借りることにする。
 陽がようやく落ちようとしていた。
「今日は楽しかったです。僕正直言ってここは通過するだけの予定だったんですけど、面白かったです」
「おれごときのナビで喜んで頂けたなら何より」
 渋谷さんはにこにこと言った。
「晩飯どうしましょうか」
「パーッとやれる物がいいよね。折角ふたりなんだし。事務所で肉とか売ってくれるそうだから、焼肉でもしようか」
「それいいですね」
 僕たちは売店で野菜や肉、酒などを買い込み、鉄板も借りてきた。熱した上に油を敷き具材を乗せ、よく冷えた缶ビールのプルタブを起こす。
「じゃあ、乾杯」「乾杯!」
 涼しい北国の夏は心地よく、苦い泡が一日走り回った喉を潤してくれる。焼ける端から食べては飲んだ。僕たちは程よく酔っ払い、取り留めのない話をして笑い合い、夜更け過ぎにベッドでゆっくりと眠った。
 翌朝。連れ立ってキャンプ場を出た。途中の道の駅でルートを話し合い、長万部近くの国道で別れることにする。渋谷さんのバイクがウィンカーを出し右折レーンに車線を変更する。丁度信号が赤になったので、暫く並ぶことになった。互いにバイザーをあげて、
「じゃ、気をつけて」「またどこかで」
 と言い合う。
 信号が青に変わる。渋谷さんが片手を上げて、すっと曲がっていく。僕は直進する。
 ミラー越しに、もう一度手をあげる渋谷さんが見えた。見えるかわからないが、僕も手を大きく振る。そして僕は、バイザーを下ろして視線を前に戻す。僕の向う先へ。たくさんの思い出を抱えて。

切手のない手紙 #2

空の見える場所

 暑い。痒い。
 知哉(ともや)はぼりぼりと無意識に腕を掻いた。日焼けした皮がぽろぽろと剥け落ちる。この温暖化の現代、男でも日焼け止めや日傘を持つべきだ。
「じゃないと死ぬ……」
 だが仕事中なので、日傘は持てない。明日はきちんと日焼け止めを塗らないと、と心に決める。
 通勤時間だけだと、ほんのちょっとだからと思いついつい面倒になるが、これは駄目だ。これだけ炎天下の中外に立つなら話は別である。
「よろしくお願いします」
 本当は美容院の店名やカット料金や場所などを言いながらちらしを渡した方が良いのだが、もう面倒になってさっきからこの言葉しか発していない。若い女性をメインに渡しているが、受け取ってくれる人もいれば、知哉の存在を全く無視して足早に通り過ぎていく人もいる。
 それは仕方ない。自分も逆の立場だったら、興味がなかったら通りすぎてしまうと思う。
 持ってきたちらしを全部配り終えるか、交代要員が来る一時間後か、どっちが先だろうか。いずれにしろそれまで店には戻れない。
(あ、あの人髪綺麗だな)
 ミニスカートの女性がちらしを無視して颯爽と目の前を通り抜けていく。ちらしを無視したのだから望みは薄そうだが、一応声をかけなくては。
「あのすみません」
 女性は知哉には目もくれず、すたすたと歩いて行く。
「あの、僕そこの美容院でアシスタントをやってまして、」
 そこまで言うとちらっと目をあげてくるが、歩く速度は緩まない。
「カットモデルとかご興味無いですか」
「結構です」
 ばっさり言ってさっさと言ってしまう。まぁ、そうだよなと肩を落としつつ女性の背中を見送り、ちらし配りに戻る。足元のアスファルトから熱気が漂ってくる気がする。噎む せ返るような暑さだ。
 近くの劇場やカフェに行く客が多い様だ。今日は何の演目をやっていただろうか。少し離れたところにある、たこ焼きの屋台から漂うソースの匂いが今は鼻につく。
 そう言えば、この前帰省した時に会った兄も真っ黒に焼けていたなと思い出す。
 営業二年目。日焼け止めを塗るのが煩わしいのもあるが、夏場の営業たるもの日焼けの色が営業回りをきちんとしているかの指針だ、という時代錯誤の上司がいる為らしい。そんな奴の下で大丈夫かよ、と言ったら、それ自体は嬉しくないけど少しずつ客の顔を覚えて、向こうにも覚えてもらって、ちょっとした世間話を出来るようになってきて仕事は楽しい、と言った。
 ――それが仕事に繋がることもあるし。軽口叩いて貰えるような関係の方ほうが、なにかとぶっちゃけて貰えて思わぬ話が聞けたりもするから。
 そう言って笑っていた。
 今の知哉は、就職したばかりで仕事の面白みがわかるには程遠い。客との接点も、やっと試験に合格して許されたシャンプーのときだけで、あとは店内にいても客と話すことは殆ど無い。先輩に言われるままに雑用をこなすばかりだ。今日など、出勤してきてすぐちらし配りなので店内にもいない。
 雑貨店から紙袋を下げて出てきた女性グループを追いかけて、ちらしを渡す。
「今キャンペーン中ですのでよろしかったらご覧ください」
 素気無い反応を予想していた知哉だったが、ひとりが知哉の顔を見て目を合わせ、立ち止まった。
「美容室?」
「はい。そうです。すぐそこのビルですよ」
「そうなんだ」
 一人が立ち止まると、他の女の子たちも立ち止まって、えー、ひろ髪切るの? そういえばさぁ、などとお喋りに花が咲く。
「じゃあちらしもらう」
 初めに立ち止まった、ひろと呼ばれた女の子が手を出してきた。
「ありがとうございます」
 じゃあ私もーというグループの女性全員に、営業スマイルでちらしを配った。すると、ひろが小首を傾げて知哉を見て来る。
 どこかで会ったことがあるだろうか。実は既にうちの店のお得意様だったりしたらどうしよう、と知哉がたじろいたところで、彼女が言った。
「おにいさん、地元の人?」
「え。大阪、ではないです」
「やっぱり。イントネーションが違うけん。もしかして広島?」
「はい」
「そうなんじゃ」
 ひろは急に訛りを変えて顔を綻ばせて言った。
「広島のどこ? うち尾道」
「僕は呉です」
「まじで! うち大学でこっち来たんじゃけど、広島の人に会うの久し振りじゃわ」
「僕もこっち来てから初めてです」
 広島訛りが懐かしく、無邪気に笑う彼女の反応も面白くて、つい知哉も微笑んだ。
 ひろはまだ話したそうだったが、友達が早く行こうよと言うので話を打ち切った。去り際、
「ほじゃ今度髪切りぃ行くけん。絶対行くけん」
「ありがとうございます。お待ちしております」
 本気で言ってくれていそうなことがわかって、嬉しくなって頭を下げた。が、彼女たちの姿が見えなくなってからはたと気が付いた。折角来てもらえても、自分はまだ髪を切ることはできないのだ。騙したような、申し訳ない気持ちになる。
 ――焦ってもしょうがないからさ。自分が今出来ることをして、お客様に喜んで頂くしかないから。
 また、兄の言葉を思い出す。
 空を見た。相変わらず、陽光が降り注いでいる。兄も東京で、苦しい新人時代を経てこの空の下、今日も頑張っているのだ。まだ社会人になりたての自分が、弱音を吐いている場合ではない。
 気を取り直して、ちらし配りを再開した。
 ひろが店に来てくれた時に自分がいたら、せめて心を込めてシャンプーをさせて貰おう、カットモデルも頼めないだろうか、などと思いながら。

切手のない手紙 #3

明治二年 初夏

「信吉(しんきち)。高嶋屋さんのお嬢さんが来はったえ」
「すぐに参ります」
 主人に言われて、信吉は整理していた巻物を戻してすぐに見本帳を手に取り、急いだ。
「これはこれは、よぅいらっしゃいました」
「こんにちは」
 お得意さんの娘はにこやかに微笑み、あれこれとお喋りをしながら信吉の手から見本帳を取り、次々に捲っていく。
「麻の着物で、新しいのがひとつ欲しいんよ」
「これからの季節は、麻がよぅございますものね」
「そうよね。それから帯も欲しいわぁ」
「お着物は、お色や柄はどんなものがよろしいですか」
「えぇとねぇ。そうね、色はこういうんがええかな」
「こちらですか」
「そう。浅葱色」
「涼やかでよぅございますな」
 相槌を打ちながら、信吉の脳裏にはふと余計なことが浮かんでいた。そこへ丁稚の行ゆきまつ松が茶を運んでくる。
「お待たせいたしました」
「まぁ、おおきに」
 娘は上機嫌に行松にも声をかけてくれ、行松は恐縮した面持ちで固まっている。
「行松、ご苦労さん。この見本帳をしまっておいてくれ」
「へぇ」
 信吉の言葉で金縛りが解けたようになり、信吉に指差された、娘がこれは違うと放り投げた見本帳と盆を抱えて、一礼をして去っていく。 
 今は手代となった信吉が、まだ信松と呼ばれていた丁稚時代。浅葱色の羽織を着て京の都を歩いていた人たちがいた。
 ――新選組。
 その中には、信吉が知っている人もいた。時々使いへ行かされた、宿屋の若旦那。あの人は宿屋が火事で焼けて身内も亡くしてしまってから、何を思ったか新選組に入隊してしまったのだ。
 新選組をよく思わない人間も多かった中、あの人は新選組に恩義があるのだと言って、壬生浪と蔑む大人たちの真似をしていた自分に優しい目をして語ってくれた。あの日から、信吉の中で新選組に対する見方が少しだけ変わった。
「なぁ、この帯はどうやろうか。この着物に合いますやろか」
 話しかけられて、我に返る。
「そうどすな。よろしいと思います」
「でもちょっと私のような娘っ子にはおとなしすぎて似合わないかもしれへんね」
「いえいえ、そんなことはあらしまへん。お嬢様のようなお若い方が着てこそ映える色味ですよ」
「あら、そうかしら。そうかもしれないわね」
 機嫌良さ気にああでもない、こうでもないと選んでいる娘に適度に相槌や助言をしながら、信吉はあの若旦那はどうなっただろうかと考える。
 先だって、箱館の五稜郭に立てこもっていた旧幕府軍が遂にに負けたという報が伝わった。箱館まで戦った兵の中には新選組もいたと言う。新選組副長だった土方歳三は戦死したそうだ。新選組隊士ら旧幕府軍で生き残った者は捕えられ、近々江戸改め東京へ連れてこられるという噂も聞いた。
 しかしもう東軍と西軍の戦闘のことなど、そう言えばやっていただろうかというぐらいの感覚だった。信吉達の日常には関係がない。箱館まで戦った隊士の中に、あの若旦那が含まれていたかもわからない。
 そもそも、新選組の中でなんと名乗っていたかも知らないし、途中で脱退したかもしれない。或いは、それ以前に命を落としてた可能性もある。
「じゃあ、これとこれと、あとはこれかな」
 娘が見本帳から幾つか選び出した。
「流石お嬢様、お目が高い」
 おべんちゃらを言いながら、選ばれた布地を確認していく。
「では一時(いっとき)以内に反物をお持ちします」
「えぇ。お母はんと待ってるさかいに」
「かしこまりました」
 店の外まで出て娘ら一行を見送ると、信吉は中へ取って返した。これから丁稚に手伝わせて高嶋屋まで赴き、娘とその母親らを相手に実際に反物を見てもらう。そこからやっと注文の運びになる。
 彼女が選んだ反物には、先ほど話していた浅葱色ものも含まれていた。
 この色の羽織を着てこの町を歩いていた隊士たち。当時信吉がいた太物屋の主人はどちらかというと長州贔屓で、何かと言えば壬生浪に対して不満を募らせていた。武士が刀を帯びてはいても抜くことは無い時代が長く続いていた中で、志士たちが天誅をし、彼らがそれを捕縛した。
 刀が抜かれ、血が流れることを、よく思わないのは当然だ。だが子供だった信松は、直接に新選組に親切にされたことも、迷惑をかけられたこともなかった。一番近かったのが、新選組に恩義を感じ、入隊したあの若旦那、あの人が信吉にとって一番近い『新選組』の印象である。
 ――私は、確かに、長州の人らがそんな恐ろしいことしはるなんて思えへんけど、新選組の人らがそんな嘘つきはるようにも思われへんのや。
 そう言って頭を撫でてくれたことがあった。あれはそう、池田屋の後だったか。主人や番頭らに失敗しては殴られていた丁稚時代に、あの人の手は大きくて柔らかかった。
 しかし、思えばあの時の若旦那は、今の自分と幾つも変わらぬ歳だったのではあるまいか。目まぐるしく変わっていく中で、年号も明治と改められ、江戸は東京になった。長州や薩摩ら新政府軍らが中心となり、この国の政治はどんどん変わっていった。
 この変化の流れは信吉の傍らを過ぎていった。あの若旦那は、その流れの本流に自ら飛び込み、流されていったのだ。一体、どこまで流されていったのか。
「おぅい、行松」
 と丁稚を呼んだ。まず兎に角、目の前の仕事をこなすことだ。自分が選んだのは、都を守ることでも幕府の下で働くことでもなく、この店で番頭を目指すことである。
 飛んできた行松に反物を運ばせながら、あの人の無事を調べる術はあるのだろうかとふと思いつく。もし無事だったら自分はどうするだろう。どんなことを話せるのだろか。彼は、何と言うのだろうかと考える。

切手のない手紙 #4

小瀬川の船渡し

 周防国と安芸国の国境を流れる小瀬川(おぜがわ)。中国山地を源流にいくつかの支流と合流しながら弥栄峡(やさかきょう)を経て広島湾に注ぐ。川幅も狭ければ総延長もさほどなく、決して大河ではない。しかし防長(ぼうちょう)以西の人間が西国街道で京師(けいし)や江戸へ向かおうとすれば、必ず越えていく。防長に生まれ育った者にしてみれば小瀬川を越えれば故郷を出ることになる。 
 小瀬川中流に、周防国岩国領小瀬村(おぜむら)と安芸国広島藩木野村(きのむら)という二村がある。船渡し場があり、まさに西国街道における防芸(ぼうげい)両国の要衝だ。

 慶応元年冬、川面の上を乾いた冷たい風が泳ぐ日だった。晴れてはいるが時折厚い雲が太陽を覆っている。
 周防側の小瀬村の二人が船渡し場の脇の小屋で番をしていた。その内の一人、忠蔵(ちゅうぞう)は張りのなくなった手を揉みながら繋ぎ止められた小舟を呆然と眺めていた。
「八郎、今日は暇じゃのう。わしらここにおる必要あるんかのう。寒うてやっとれんで」 
 忠蔵の横で読み物をしていた八郎は忠蔵のしわがれた声に顔を上げた。
「今日の番がわしらなんじゃけ逃げ出すわけにも行かんでしょう。寒いと思うけぇ寒いんじゃ、と父ちゃんによう言われました」
 忠蔵に対して八郎は若い青年で、凜とよく通る声で答えた後、火鉢の中で赤く光る木炭を確認して再び読み物に戻る。
「気持ちの問題で冬は温(ぬく)うはならんで、八郎。お前の父ちゃん、確か寒がりじゃったろう。そりゃ自分を言い聞かす言葉じゃないんか。火鉢じゃなぁて、薪(まき)で火を起こしたいくらいには冷えるのう。ちったあ動けばまだましなんじゃが」
 八郎は身を震わせながら饒舌に語る忠蔵に苦々しい顔を上げた。
「日頃は冬でも冷たい水に手を入れて紙をすいとる人が、寒い寒いと言うんは不思議な感じがします」
 一昨日降った雨の影響で水かさが少し高い上にこの寒さだ。徒渡(かちわた)りの多い武士以外の身分の者も船渡しを選ぶ割合が高いはずだが、言われてみればなぜか船渡しの自分が暇をしている時間が多いなと八郎は思った。町民の交通量が減ったと感じたのはこの秋以来だ。戦が起きると村の内外で噂になった頃のことだ。
 幕吏や諸国の大名などがこの地を通過していくことは、当然珍しいことではない。
 幕府の命を受けて書状を預かる飛脚を渡したことが八郎はある。しかし、あの秋に小瀬川を往来した幕吏、岩国領主やその家来の神妙な面持ちと物々しい雰囲気は、いつもにはない緊迫感があった。危機感と言っても良い。長州と岩国の家老が禁門の変での責任を取る形で切腹したという話はつい最近のことだ。
「この頃は長州のお侍さんらがようけ来なさったのに、今日はどうしたんじゃろうかね。本業の紙すきに戻りたいのは山々じゃ」
 忠蔵の言葉を聞いて、八郎は眉間に皺を寄せた。一抹の不安が胸の奥で色濃くなる感じを覚えたのだ。
「言われてみりゃ武士の方々の往来が増えた気がします。秋頃は戦の噂で農村民の交通量が減ったけぇお侍の行き来が増えたように感じとったけど、最近は単純に二本差しの方が多い気がする」
「長州じゃ内乱が起きるかもしれんらしいけぇのう。ご家老様が切腹したんじゃ。岩国はもとより、朝敵の汚名を一身に受けた隣藩長州の藩論が揺れるのも流れの内じゃろう」
 忠蔵は両手のひらを火鉢に掲げて鼻をすすりながら、白い毛の混じる眉を片方上げて八郎を見遣り、話を続ける。
「幕府への対応は必然防長の玄関口である岩国かこの川を越えた広島かになろうて。ほじゃけぇ難しい顔をしたお侍さんらの往来も増えとったんじゃろうのう。今日の暇は偶然じゃろう。神様仏様がわしらに下さったお暇(いとま)じゃ」
 そう言って忠蔵は目尻に皺を寄せて笑った。
 何も考えていないようで忠蔵には忠蔵の思いがあるのだなと八郎は意外に感じた。伊達に齢(よわい)だけを重ねているわけじゃないということなのだなと。
「そしたら、もし萩藩庁が強行な姿勢をとり続ければ小瀬村と木野村で長州軍と幕府軍が睨みあうような事態になるんじゃろうか」
 八郎は呟くように不安を口にした。しかし、そんな不安を笑い飛ばすように忠蔵は言い放った。
「んなわけないじゃろう。あんまり何度も口にすることじゃないが、ご家老様が腹を切られとるんじゃ。長州だけじゃない、岩国も。幕府への恭順の意に他ならん。黒船のことやら血生臭いことが立て続けにあったもんじゃけぇ、八郎は神経質になっとるんじゃろう」
 あまりにも朗らかに忠蔵が笑うので、八郎は自分の思いが杞憂なのだろうと思えた。忠蔵の言う通りだ。なんの為の切腹だ。戦国乱世から二五〇年余り続く幕府の下に築かれた天下泰平の世の中が揺らぐはずがない。
「ほうら、お客さんだぞ。いきなり増えたなぁ」
 窓越しに忠蔵が船着き場を顎で指し示しながら言う。忠蔵は寒くて出たくはないのだろう。八郎は「この怠慢オヤジめ」と内心で言い捨てから立ち上がり、屋外へ出た。船渡し場に二本差しの武士が三名ほど船頭を待っていた。小走りで八郎は向かう。
「お待たせしました。お勤めご苦労様です」
「よろしく頼む」
 自分と同い年くらいの青年たちだった。歳も近く仲が良いのだろう。笑い話をしながら船へ乗っていく。訛りから察するにこの辺りの武士だろう。
 八郎は全員が乗船したのを確認すると舫(もや)いを解いた。棹を川底へ押し当てて出航した。増水しているとは言え、川の流れは緩やかで常日頃と相違なさそうだ。
 太陽は南天を過ぎやや西へ傾いた頃だった。今日一番の暖かさを肌に感じながら八郎は船を進める。 
 ふと上流の方を見遣る。川幅二十間(けん)強とは言え山に囲まれてはいるが、河川の両岸を含め広い空間だ。雲が落とした影が川を跨いで木野村に向けられた大砲たちを越え、小瀬峠の冬の森へ過ぎ去って行く。
「小瀬の砲台は今日も今日とて威圧的じゃのう。あれじゃあ砲門を向けられた木野の村民はもちろん、小瀬の民草も気がおけんじゃろう」
 若い侍衆のひとりが八郎に声を掛ける。
「お侍さんらが険しい顔してあげな砲台を村に築きなされれば、一体何事かと村民や人らは思うておるでしょうなぁ。防長は戦になりましょうか」
 八郎は戦の噂以来、自分が感じてきたことを言葉にして告げた。上級武士でも諸隊の幹部でもないであろう若い侍らに萩藩庁の意思や藩政の行方を知る由もないであろうが、尋ねずにはいられない。
「我が殿はもとより、吉川監物(きっかわけんもつ)殿も自ら事に当たられとると聞く。万事ぬかりなく事は進められるであろう。士農工商問わず防長二州に住まう我々が常日頃の勤めを全うすることが、ひいては殿らをお支えすることになる。腐敗した幕府らが例え攻めて来ようと……」
 問いに答える最前に座る武士の肩に手を乗せて、その後ろに座る色黒の侍が話を遮った。
「話し過ぎじゃ。先の事は神や仏でもわからんものじゃ」
 日の暖かさも忘れる川面の冷気も手伝ってか、平和とはほど遠い大砲の姿と彼らの言葉にはやはり胸騒ぎを覚えずにはいられない。
 川の中間地点で対岸からの渡し船とすれ違う。顔見知りの船頭に会釈をした。あちらの乗客は二名。笠を深く被っているので顔は見えない。腰に刀が見えたので武士身分なのだろうが、身なりが随分とくたびれているように見える。最近多いと聞く脱藩浪士であろうか。しかしその背中はやけに大きく感じられ、懐の広さ、器の大きさすら感じられる気がするようだ。
 すれ違う乗客の二人の内一人が少し顔を上げた。切れ長の目に通った鼻筋が特徴的で、眉目秀麗という言葉が相応しい顔がちらりと見て取れたが、その表情は固く、対岸の小瀬村を瞬きせず見つめていた。 
 八郎はすれ違う船を背後へ見送って自分の船を更に進めた。
 移ろいで行く世の中は、川の流れの如く過ぎて行けども戻りはしない。黒船、開国、尊皇、攘夷。そんな言葉を巷で耳にしなかった時代が終わり、諸藩や尊攘志士らが国を憂う時勢。交通の要衝、歴史を紡ぐ武人は行きも帰りもこうして小瀬川を渡る。

切手のない手紙 #5

もうひとつの『池田屋』

 彦五郎は手早く羽織を脱いだ。手にしていた大刀の先に引っ掛けると、階段の上の方に徐ろに突き出した。日も暮れた宿屋の廊下。既に襲撃を察知し市次郎をピストルで撃って殺気立っている薩摩人達は、羽織を新手と勘違いして撃ちかけてきた。ぱんぱんと乾いた音がする。階段の上で待ち構えているのだ。薄暗い中に閃光が弾ける。
 音が鳴り止んだ間隙を縫って、彦五郎は素早く階段を駆け上がり、上にあった行燈を斬り倒した。辺りはぱっと闇に包まれ、時折短銃の音が響く中、二十人近い男たちの乱闘が始まる。数の上では倍近い人数がいた薩摩浪士たちは、仲間が二人斬り倒された時点で窓を破り逃げ出した。
 時は慶応三年十二月。十月に大政奉還が行われた。一体新選組はどうなるのかと気を揉んだ彦五郎だったが、別条なしとの連絡が入ってひとまず安堵したものの、翌日には近藤勇の義父、近藤周斎が病死し、勇と義兄弟の縁もあり、葬儀に参列した。
 その頃、薩摩の浪士隊は、江戸で挑発行為をして治安を悪化させ、幕府を怒らせて、向こうから手を出させようと画策を始める。江戸三田にあった薩摩藩江戸屋敷にはたくさんの浪士が集結していた。彼らは勤皇活動費として豪商から大金を巻き上げ、捕吏に追われると薩摩藩邸へ逃げ込むと言うあからさまな挑発を繰り返す。江戸中を荒らし、狼藉を働きつつ、江戸から西に移動していった。江戸幕府の軍事的拠点と言われる甲府城を乗っ取ろうと、甲州街道を進んでいたのだ。 
 代官からの依頼で、日野宿の名主佐藤彦五郎が助力を請われ、佐藤道場の剣士たちは目明しと共に、薩摩浪士のいる八王子宿の「壺伊勢」こと伊勢屋に乗り込んだのだった。幾人か捕り逃したものの、数日後に潜伏しているところを発見もした。味方より人数の多い敵が集まっているところに斬り込んでいったこの件は、まるで多摩の池田屋みたいじゃないかとおれは思っているんだよと、彦五郎は言った。彦五郎にしてみれば、勇たちが浪士隊として上洛したとき、名主の仕事がなければついてきたかったと思っていたほどの男だ。日頃勇と義弟歳三、馴染みの天然理心流同門の仲間たちの都での活躍を、はらはらしつつも羨ましく見守っていた。今回は甲陽鎮撫隊を任された勇たちに、自分も春日隊を率いて共に戦うつもりだった。
 すっかり立派になって大名のような出で立ちの勇に、自分は自分でここで頑張っている、だから足手纏にはならないというつもりで話したのだが、勇は彦五郎の話を聞いて驚いた。
「鉄砲とやりあうなんて危な過ぎるよ。おれだってまだやったことないよ」 
 それを聞いて、彦五郎は笑った。
「そうか、ならそこはおれの勝ちかな」
 そう言われて、勇も笑った。
「そうだな。おれの負けだ」
 その後、少し寂しそうに続けた。
「鳥羽伏見におれは出られなかったけど、歳(とし)が言ってたよ。もう刀や槍では戦えないって。もう、そういう時代ではないんだな」
「………」    
 勇は普段は飲まない酒を、地元の皆が凱旋と出陣の祝いで出してくれているので飲んでいた。 
 鳥羽伏見の前に肩を鉄砲で撃たれた勇は、まだ怪我が治っておらず胸のあたりまでしか腕が上がらなかった。酒を煽ろうとすると、ずきっと痛みが走る。
「大丈夫か、傷の方は」 
 顔を顰めている勇に、彦五郎は少し声を潜めて尋ねた。勇はにこりと人の良い笑みを浮かべる。
「なに、 右手が使えなくても左手があるよ」
 と、盃を左手に持ち替えて酒を飲んだ。
 ふたりは、顔を見合わせて笑った。 
 この先ふたりに待っている戦いは、砲や銃を相手にする戦いだ。開国の影響で治安が悪くなり、強盗や放火が増えた自分の村を自衛しようと、みなに刀を握らせようと彦五郎が作った道場に、勇が出稽古に来てくれていたあの日々。彼らの絆の始まりであったあの日々が、今はとても遠かった。
「随分遠いところに来ちまったよな」
 思わず彦五郎が呟くと、勇には伝わったらしい。
「そうだな」
 とだけ、答えてまた酒をあおった。
 開国の波に揉まれ自分たちの足で踏ん張ってきた彦五郎と勇は、今度は幕府の瓦解という時代の波に、またも揉まれることになるのだった。

切手のない手紙 #6

忘却の彼方

創作庵月雪花 (著), (巴乃 清, 愛月 律馬)

落としたもの。それは、初恋の記憶。

《あらすじ》
杉浦啓は、他人の落とした記憶が見えてしまう目を持っている。
そんな彼の唯一の理解者は、幼馴染の松元兼司。
大学生活最後の秋の連休、啓は兼司に北海道旅行に誘われた。落し物捜しに付き合ってくれというのだ。
もちろん、ただの落し物ではない。それは、兼司が小学校五年生の時に落とした淡い初恋の『記憶捜し』だった。

Kindle版 500円
※Kindle Unlimitedの方は無料でお読み頂けます。

紙書籍版 600円

試し読み (カクヨム)