あるお寺へ行った人が感想で、「宗教色を感じるのが残念」とい言っているのを見かけた。宗教施設へ行っておいて宗教っぽいから嫌というのはどういうことなのだろうか。
という話をしたら、「自分はお寺が宗教だと知らなかった」と言ってきた人があった。
宗教というと新興宗教のイメージなのだそうだ。金儲けのための胡散臭い施設=宗教で、そういう雰囲気が無いお寺は宗教ではなく、寺は寺だと思っていたそうだ。
神社と寺は似たようなもので、どちらも神様がいる神聖な場所という認識はあるのだとか。
寺社仏閣は好きだそうだが、そういう認識なのである。
自分もそこまで詳しい訳ではないものの、正直驚いた。驚いたが、若い世代でそこまで興味がない場合の認識というのはそういうケースも多いのかもしれない。
何故知らないのか、というより、何故自分は知っているのだろうと考えた。
多分、一番には親である。
家は無宗教ではあるが、季節の室礼はきちんと整える家であった。
注連飾りや門松、鏡餅。七草粥を食べて鏡開きをし、節分には豆をまく。お雛様を飾り、お花見に出かけ、鯉のぼりを出し笹の葉を飾って浴衣で歩いた。すすきを飾り月見酒をし、紅葉狩りに出かけて柚子湯につかる。
節句ごととまではいかないが、それなりにしている方ではなかったろうか。
現代においては整えるのも大変だ。やらない人も多かろう。そうして親がやらなければ、子供もやらないのが当たり前になっていくだろう。
文化や常識というものは、簡単になくなり変わっていってしまう。
大晦日は、子供の自分が唯一夜更しが許されている日だった。だから、眠るのが勿体ない気がして眠い目を擦って起きていた。住んでいたのは港町だったから、0時を過ぎると汽笛が鳴り、教会の鐘が除夜の鐘と一緒に鳴り響いており、それを聞くのが楽しみだった。
明けて元日は、着物に着替えて過ごす。羽織を着て初詣に出かけ、破魔矢を頂いてくる。
参拝の仕方を教えてくれたのは父だったと記憶している。特に書いていなければ二礼二拍手一礼が無難。寺は拍手をしない。
親から教わった知識を補強してくれたのは、本や友人から聞いて得たことである。二礼二拍手一礼が決まったのはいつ何故だったか。この寺の宗派は何で、どうして分派することになったのか、などなど。
得てきたもの全てを照らし合わせて、自分の持つ『常識』になっている。
自分が当たり前だと思っていることが必ずしも当たり前ではない。それは当然なのだが、当たり前だと思って説明をする必要性を感じなかったことも、実は他の人にとっては目新しい有意義な知識であることもあるようで。
インプットするばかりでなく、アウトプットすることも大事だと気付かされるのはこういうときだ。
与えられるばかりではなく、返すこと、伝えることも大切にしなければならないと思う。