掌編『あの日の夢の続きを』(読切)公開しました

「今夜大声を出すと思うけど、無視してほしい」
ある日有馬は、アパートの隣人西に不思議な頼みごとをされた。友達を呼んで騒ぐ程度の話かと思ったが、その夜聞こえてきたのは「やめてくれ」という絶叫だった

Nolaノベルに投稿しました。

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その声は、誰の声

私は幽霊の声が聞こえる。
と言うと語弊があるだろう。聞こえるような気がする、のだ。

こんなことを言うと、病気だとかオカルト趣味だとか言われそうだとは思うのだけれど、そういう訳ではない。
いつからかははっきりとわからないが、明確に覚えているのは、中学生の時に自室で勉強をしていたら、子供たちの話し声がしたことだ。

ドラマやアニメなんか演出であるような、急にふわっと、エコーがかかり気味でしかし耳元できゃっきゃうふふしている声がした。
深夜なので、隣近所の声がしたという訳ではない。それにしては聞こえ方が本当に耳元だったし。
しかも、どうも日本語ではなかったのだ。おそらく英語で話していたと思う。

私は幽霊を見たことというのは無いし、すべての怪談を信じてもいない。立ち位置としてはニュートラルで、そんなこともあるかもね、とは思っている。

クラスメートに霊感があるとはっきり豪語する友達は数人いた。その一人に、子供の声がした翌日に顔を合わせるなり、
「外国人の女の子が憑いてるよ」
と言ってきた。

数日体が重かったが、ある日の授業中耳鳴りがして、ふわっと体が軽くなった。授業終わりに友達を掴まえて訊いてみると、「もういなくなってる」という答えだった。
彼女に何も説明していないのに自分の感覚と一致したので、素直に「ああそうなんだ」と受け止めた。

耳鳴りについて、テレビで霊能者が「幽霊の声だ」とおっしゃっていたのを聞いたことがある。周波数が合えば声に聞こえるのだと。
これが、自分には腑に落ちた。
先の件も、周波数が合っていたらいなくなる時にも、何か言っていたのではないか。

誰かの声がしたと感じることは実は度々ある。自分では『気の所為』だと思ってきた。
のだが、耳鳴りがしたとき集中するとだんだん声に聞こえることもあるので、もしかしたらもしかするのではないかと思っている。
声は反響が酷すぎてなんと言っているかわからなかったり、もやもやして聞こえたりすることもあれば、はっきり聞こえることもある。大体一言や二言で、会話になるようなことは無い。
自分に霊感があれば、会話ができるのかもしれないが

たとえば、右と左どちらの道を行こうかなと悩んでいるときに
「これは右だな」
という声が聞こえたりする。
そして右に行くと、実は左は大渋滞が起きているようなパターン。
自分に教えてくれているというより、独り言が聞こえているような感じで聞こえる。

こんな自分なので、霊感刑事の告白という本を読んで、「わかるわかる」と思ってしまった。この方ほどはっきり聞こえるわけでも、生活に影響がある訳でもないけれど、自分がおかしいんじゃないかと思ったり人に言うのは勇気がいったりというのはよくわかる。

 霊界があるかどうかも、私はわからない。しかしいなくなるというのは別の場所へ行っているだけなのではないかと考えることはよくあるのだ。真実はわからないけれど、跡形もなく消えてなくなるのではなくて、別のところに行っただけという方がこちらの気持ちも救われないだろうか。時々その別の場所と、今自分たちがいる場所が近くなることがあるのではないだろうか。

 そんなことを考えながら、つい耳を澄ます。

小さな禊

 外食をすると当たり前のように出てくるお絞り。元は日本独特の文化だったと言われている。

 歴史を遡ると、平安時代にまで遡るようだ。昔は道も舗装されていないし、靴のように甲まで覆わない履物が主だったこともあり、道を歩けば手足が汚れるのが当たり前だった。そこで、宿屋や誰かの家では客人を迎えるに辺り、手ぬぐいと水を入れた桶を用意していた。桶の水に手ぬぐいを入れて絞るから、お絞りという呼び方になっていったという。

 最近では残念ながらコスト削減でお絞りが出てこないお店もあるし、大抵は使い捨ての紙や不織布製の手拭きが多い。紙製の場合はアルコールが含まれていたり、嵩張らないので駅やケータリングの弁当に添えやすいといった機能性が高いのも面白い。使い捨ての方が衛生面では良いが、コストと環境面では微妙なところだ。面白いのが、東側では紙製が好まれ、西側では布製が好まれるというエピソード。新幹線でも以前は西側では布製のお絞りが配られていたが、衛生面から山陽新幹線も紙お絞りに変えられたそうだ。ただ西側発のお店や高級感を大事にしているお店、ホテルなどでは今でも布製で出てくるところが多い。

 個人的には、布製でしかも温かいお絞りの方が嬉しい気持ちがする。紙製でも分厚いものなら良いのだが、そうでないと使い心地が悪いからだ。ぺらぺらなのできちんと拭えた感じがあまりしないのと、すぐに乾いてぱさぱさになってしまうのが気になるのである。お店によってはテーブルに予備を設置しておいてくれたり、良いタイミングでもう一枚持ってきてくれたりすることもある。

 特に外食するとき、帰宅したわけではないものの一応室内で着席して、何か食べようというときにはやはり本当は手を洗いたい。洗えなくても手を拭いたい。

 起源が家に上がる前に拭うためというだけあって、元々日本人は上下(かみしも)の区別があり、家に上がる時には履物を脱ぐし、何かする前には体を清めるのが習慣になっているのだろう。きちんとした禊でなくても、手を拭うだけでも気持ちがすっとするものだ。

 日本のお絞りは飛行機の国際線で提供したことがきっかけで海外でも好評となり、普及しているそうだ。清めるという概念でなくとも、やはりお絞りで手を拭くとすっきりするのは人類共通なのだろう。

 ウェットティッシュで手を拭いたり、顔を水で洗うだけでも気持ちが切り替わる。大きな意味で、水垢離のようなものなのかもしれない。

クレジットの意味。

クレジットという言葉。クレジットカードや、クレジットタイトルの略として使われることが多い言葉だと思う。

 元はラテン語の貸付という意味からきていて、信用や信頼、そこから生じる名声や評判のことを指す。

 ある作品のクレジットに、自分の名前を入れるか入れないか

 という話をしていたとき、ある人から「クレジットの直訳は信用だ」

 と言われてなるほどと思った。

 基本的には、自分がした仕事なのだからクレジットを入れるべき。

 それがどんなに不本意な物に仕上がったとしても。自分が作った責任というものがある。

 クレジットとして名前を出すというのは、自分が作ったという顕示の意味もあるが、品質保証の意味合いもあると思う。

 ある作家先生が映画の脚本に携わったのに

「小説家仲間にこれが自分の脚本だとは思われたくない」

 とクレジット表記を辞退したことという話を聞いたことがある。

 自分の作品であると記すこと。

 それは、「あなたの作品だから手に取る」というファンの方に対して恥じない自分の全身全霊、魂を注ぎ込んだ作品であるべきだ。

 自分の実力が及ばずまたは価値観なが合わずに「つまらない」と言われるのは残念だが仕方ない。

 自分が作ったものを他人に不本意に壊されて自分のものだと到底言えないものを他人の目に触れさせるのは、矜持に関わることだしやはり信用問題にも関わる。

 気持良く名前を出せる作品ばかりが作れるかと言ったら、やむを得ない事情でそうならないこともあるし、それでも名前を出さなくてはならないこともあるだろう。

 そんな中でも、誇りを捨てずにできる限り真摯に向き合っていきたい。