”自分”の積らせ方

 自覚はないのだけれど、「なんでもできるね」「なんでもよく知ってるね」と人から言われることは割と多い。その度に、「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」と某女史の名言を返したくなる。この言葉は非常に真理で、初めて聞いた時には全くその通り! と思った。別に自分で調べたことを知っているだけなので、すごいと言っていただくほどのことはなく、況してや羨ましがられるのは違うだろうと思うわけで。

 自分の知識の範囲が比較的広いというのは、確かに自覚している。そしてそうなった要因は三つあると思う。

 まず初めに、読書が挙げられるだろう。エッセイ、古典、漫画、資料集、なんでも少しでも興味を持ったものは読んでみる。図書館や本屋などでなんとなくタイトルに惹かれたり、装丁が好きだったものを手にとったり、自分が好きな作家や役者が好きだとあげていた本や、好きな本の参考文献に載っていたものも片っ端からリスト化して読んでいく。

 そこそこ記憶力はある方だとここは自負しているが、そうは言っても読んだ内容を全て覚えていられるわけではない。大事だと思ったことはメモを取り、感想を記録に残す。それを時折読み返し、時折本を読み返す。これを続けていると、広範囲でありつつも自分の中ではある程度系統立てて知識が積み上がってくるのだ。

 二つ目。疑問に思ったら調べるということだ。これはみんな当然しているものだと思っていたが、意外とそうでもないらしい。調べるのにもある程度の技能が必要なようで、オタク技能のひとつという意見もあるそうだ。

 これも元はと言えば本がきっかけだっただろう。家には百科事典や辞書が幼少期から揃っており、単なる読み物としても読んだし、なにか疑問があればページを繰った。図書館へ行けばより多くの資料があり、レファレンスサービスもある。調べてもわからないことは、父親に訊けばなんでも教えてくれた。正に、なんでもできてなんでも知っていた。(父という比較対象があるから、自分は全然物知りではないと思っているのだと思う)そこからヒントを得て自分で調べたりもした。

 今ではインターネットというものがあり、検索エンジンに言葉を打てばなんでも答えを教えてくれるので、調べることがより簡単になった。もちろんヒットする情報は玉石混交であり、取捨選択は必要なのだが、それは本や人の話でも同じことである。だからこそ、情報は多ければ多いほど良いと思っている。砂金を取るのに金だけを抓める訳ではないのと同じだ。たくさん取ってその中から洗い出していく。多角的にものを見てどれが正しいのか自分で判断できるようになる為の経験となっていくはずだ。

 最後が、手帳である。

 そも文房具好きになったきっかけが、父がくれた手帳と万年筆だと思う。父自身がそうしたガジェットが好きで、手帳も常に持ち歩いていた。幼い自分に手帳をくれた時、父は言った。

「なんでもそこにメモをしていくといい。八百屋の店頭の野菜の値段とか、迷い猫のビラにある猫の特徴とか、なんでもいいから毎日メモを取る癖をつけるといいよ」

 それを聞いた私は、そんなものをメモにとってどうするんだろうと思ったのが正直なところだった。だが、使っていく内にだんだんその意味がわかってきた。

 たとえば毎日トマトの値段をメモしていると、トマトの値段の移り変わりがわかり、その理由を考えると、季節や天候であったり時勢あったりなんらかの原因が見えてくる。傾向がわかって次に安くなる時期がわかるかもしれない。近くの食堂のサラダからトマトが消えた理由が見えてくるかもしれない。

 そんなくだらないことと思う事勿れ。これは世界を知り人生を学ぶことに繋がっていくのだ。大袈裟ではなく。こうした気付きが意欲にもなり学びを深くする。

 私は野菜の値段こそチェックしなかったが、その日あったことや体調、気持ちなどなんでもメモを取るようになった。受け取った手紙、もらったレシート、道端のポスターのこと。たとえあとで見返さなくても、メモを取る行為により記憶される地層が一段深くなり、少しだけ忘れにくくもなる。本や映画の感想、読みたい本やしたいことのリスト、意味を知らなくて検索した言葉、面白かった記事、時間が合えば行きたい美術館の情報、友達の誕生日や好きなもの。そこには自分自身の情報が溜まっていくのだ。

 今では手帳を持ち歩くことはなくなったが、スマホの手帳アプリで相変わらず同じことを続けている。アプリならパソコン、スマホとガジェット問わず情報が連携できるので、歩いていて思いついたことをスマホに入れて帰宅してからパソコンで調べて掘り下げて別のメモアプリに移すというようなことも簡単にできて良い。Evernoteに雑多に溜め込んだ情報は膨大になっており、きちんとまとめれば立派な文献になりそうな気もする。

 書き残すことで自分の好きなものにアンテナが張れるようになり、客観的に見ることもできる。好きなものの情報がどんどん溜まっていく。降り積もり、地層になり、そしてまた掘り返す。

 あれもこれもとあちこち掘り返して浅い穴があちこちに散らばり周りも散らかっているが、自分はなんとなくどこにどの穴があるかは分かってはいる。穴にはまって転ぶこともあれば、深みにはまることもあり。穴を放置することもあるが、前途中まで掘った穴をまた掘り始めることもある。そもそもどこまで掘れば最後かというと、最後など無いとも言える。

 掘っている内に横穴が出てきて別の穴と繋がったり、水脈を発見したりすることもあるのが面白い。穴が崩れて生き埋めになりそうになることもままあるが、それもまた大きな意味では楽しいものだ。

 今、穴の横の地割れの向こうに微かな光が見えていて、どこに繋がるのか楽しみなものがまたひとつ出てきたところ。

 ここまでの歴史の中で様々な人がいろんな形で積もらせてくれたものが、自分の中に降り積もり、また新しいものを形作っていくのだ。

#prose

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