ブログ

知識のアップデート

 時々、『ファッションはその人のピーク時で止まる』という話を聞くことがある。ピーク時はお洒落にも気を配っていて、その時の流行りのアイテムをワードローブに詰めていたけれど、ピークを過ぎてお洒落にも気を配らなくなって、最新のアイテムを取り入れることがなくなっていく。その状態で「今日はお洒落をしよう」と思い立っても、そのワードローブで出来る、自分の当時の知識できるお洒落だから”古い”ファッションになってしまう、というのだ。

 ファッションは周期があって、ちょっと変わりつつも流行は繰り返すものなので、うまく一周していれば寧ろ最先端になり得るとは思うし厳しい話だが、まぁ確かにそういう面というのはあるのだろう。

 

https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=asairtheusumu-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4088653955&linkId=b0929f63462e21ae25bb4b456d9bee57

 最近読んでいる槇村 さとる先生の『Real Clothes』 にもそんな場面が出てきた。そしてこの漫画の感想でも、「この髪型ダサい」という最近の若い人の感想があり、「当時は流行っていたんだよ、私もしてたよ」という今三十代、四十代かと思われる人の返信があって、流行の移り変わりというものを感じた。

 お洒落に興味がある人は、いくつになっても最新の流行に気を配り、その中で自分のスタイルに合うものをうまく取り入れてワードローブがアップデートできるのだと思う。

 これはファッションだけに限らず、どんな分野でも言えることではないだろうか。

 先日映画館に映画を見に行ったとき、近く老夫婦が座っていた。仲睦まじく微笑ましい、と最初は思っていたのだが、禁止事項である飲食物の持ち込み、上映中のお喋りが激しく、しかも持ち込みの食べ物が買ってきたのか自宅で揚げてきたのかパックに入れたコロッケで、臭いとパックの音が酷かった。

 確かに昭和時代には持ち込みOKの映画館も多かっただろうし、映画館で買うより持ち込んだ方が安いから立派な節約のうちだったろう。

 劇場にお芝居を観に行った時も似たような目にあった。多分昭和の映画館と同じ感覚なのだろう。十人ほどの団体のおばさま方が飴をシェアし、この時点っではまぁグレーかなと思っていたら、コンビニで買ってきたカップ入り飲料をずごごごごっと遠慮なくすすり、お菓子を開封して袋を回してシェアし始め。その芝居には年配の有名な役者さんが出ておられ、多分その方目当てだったのだろう。その方が出てきた途端「きゃー、◯◯さんよ」「やっぱりいい男よねぇ」とお喋りが始まった。

 歌舞伎の大向こうでもあるまいに、勘弁していただきたいと思ったが、映画館にしろ劇場にしろ始まってしまっていると、注意してやめてもらいたくても立っていって声をかけて止めてもらうというのはかなりハードルが高い。下手をすると自分のその行為がまた他の方々の迷惑になりかねないので、ひたすら耐えるしかなかった。

 映画でも芝居でも、見に行こうと思った時にふと思い立って会場のサイトの注意事項を確認してみるとか、チケットの裏面にある注意事項をよく読むとかいったことをすれば書いてあるような、基本的な禁止事項のはずだ。

 だが、アップデート出来ていない人というのはアップデートをしない人な訳で、そうした行為はしない。そうすると、自分の中の間違った知識、または古い知識のまま進んでしまう。

 これはなかなか怖いことだ。

 自分の専門分野なら兎も角、どんなジャンルでもアンテナを張っておくことというのは難しい。思い込んでしまっていることを改めて確認しようと思いたつことも難しいだろう。

 それでも多分、注意深く周りを観察する、話を聞くということをすれば、多少なりともアップデートする機会は得られるのではないだろうか。

 アップデートできないままではいたくないし、アップデートできないだけならまだしも、自分が古いだけなのに「最近の若い者は」「流行りに飛びつくなんてミーハーなことはしたくない」なんて正当化するようなことはしたくない。

 悪気はなくても周りに迷惑をかけることになりかねない行為なので、いただけない。

 ときにはワードローブも脳内も、断捨離して空気を入れ替えることが必要だなと自戒をこめて思う。

https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=asairtheusumu-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4088653955&linkId=426b9259164ec30f45a0bf21b9ee3202

車という趣味

 私が車を好きになったのは、小学校二年生くらいの話だと思う。

 父親がギアチェンジをする様子が面白くて、助手席に乗ってそれをずっと見ていた。タコメーターなんてまだわかっていなかったけれど、体感でぶーんという音がこれくらいになったらギアを変える、みたいなことは分かってくる。私有地で父親がクラッチを切ったタイミングでギア操作だけさせてもらうのが楽しみだった。

 車の後ろにキャンプ道具と愛犬を乗せてオートキャンプに出かけるのも好きだった。

 そんな訳で、二十歳になって車の免許を取れるとなったとき、迷うこと無くマニュアルで取った。既に世の中は普通オートマという流れになっており、その教習所でMTで教習を受けている女の人は自分しか見かけなかったくらいで、班で行う実習も常に紅一点だった。それでからかいたくなるのか、教官には「あんたがタイヤもちあげられたの、ひとりで? 本当に?」みたいないじりをよくされていて、未だに嫌な思い出のひとつだったりする。  まぁそれはさておき。

 類は友を呼ぶのか、周りには車好きの人が多く、今はお金が無くて車が買えないけど実家に帰ると乗り回しているとか、やっと愛車を買ったとか、そんな知人たちばかりだったので、最近の若者は車を欲しがらないし、必要性を感じていないといったニュースについては、そんな人もいるんだろうか、程度で、最早都市伝説のレベルで遠い存在だった。

 これが最近、ついに車を欲しがらない若者と実際に接する機会があったのだ。

 相方が車好きで、欲しいし便利だし、と言っていても「いらない」の一点張り。交際中は兎も角めでたく籍を入れたら優先順位が変わってOKが出るかと思いきや、変わらず「車なんていらない」のだそうだ。

 詳しく話を聞いてみると、そもそもその人の実家でも車を持っていなくて、町中を移動するのに電車とバスで十分という環境で育っているそうで。それなら、必要だなんて思うはずもなかろうと納得した。

 生粋の都会っ子にとっては車は不必要な贅沢品で、相方が欲しがっている高価な玩具、家計を預かる者として止めるのは当たり前、くらいの考えにもなりそうだ。

 車というのは自分のような田舎育ちの人間からしたら貴重な足であり、寧ろ車があるから公共交通機関は殆ど利用しなかった。

 必要だから、というのとは別に、冒頭にあげたように自分で操作するというのが楽しくて好きになったが、そのどちらの感覚も無い人にとっては無用の長物な訳だ。

 若者の車離れだなどと言われるが、同じ年齢でも育ってきた環境で必須と思う人、無用と思う人といるし、あれは若者が興味を失ったというより色んな問題を内包しているとは思うが、それもここでは置いておくとして。

 車も進化して、自動運転の実用化もそんなに遠い未来ではなさそうな昨今、自分でギアを操作するMTの需要が減り、その内自分で運転をすること自体が特殊になっていくのだろう。

 レンタカーやカーシェアリングなどのサービスもあるから、確かにうまく利用すれば自家用車を持つ必要はないのかもしれない。

 車好きな自分としては寂しい限りだが、マイカーを持ち、それを自分で運転するというのは、この先贅沢で風変わりな趣味のひとつとなっていくのかもしれない。下手をすれば緊急時以外の手動運転が禁止になる可能性すらある。

 折角苦労して免許もとったのだし、乗れる間は安全運転を心がけて乗り回したいものだ。

#prose

子燕の旅立ち

 よく通る商店街に、防犯カメラがついている。そこに去年燕が巣を作ったが、真下を人が通る場所である。頭上注意、と書かれたカラーコーンが置かれていた。雛が旅だった後、巣は奇麗に取り除かれ、鳥よけのトゲトゲした形のネットまで巻かれる万全の体制が取られた。

 と思いきや。ネットが上手く足場になって作りやすいとばかりに、そのトゲトゲの間に埋めこむように今年も巣が作られた。また注意を促すカラーコーンが置かれる。よく人が立ち止まってにこにこして見ているのを見かけた。自分もその中の一人である。

 八月に入って、親鳥が少し離れた箇所につけられたスポット照明の上に止まるようになる。その向かいにあるお店の看板のところに、オーナメントのように成長した子燕たちが並んでいた。飛び方を習っているのだろう。

その翌日も同じところに親も子も止まっていたが、ついに翌々日、親だけになって子供の姿はなかった。巣立っていったのだろう。

 子燕は季語にもなっているくらいで、古くから歌にも読まれてきた。育つのを楽しみにし、巣立つと少し寂しく、しかしまた嬉しくもなる。

 来年は果たして、同じ場所に巣が作られるのだろうか。それとも商店街の方で鳥よけネットを倍増させるのだろうか。糞害などの対策に追われる商店街の方には申し訳ないが、来年も元気な姿を見せて欲しい気もしている。

 

#prose

人生にリセットボタンは無いけれど

 恐らく、人よりは比較的引越しをよくしている。理由は、子供の頃は父の仕事の都合があげられる。それで引越したのが四回。大人になってからは今の所六回。

 大人になってからはたと気がついたのは、好きな場所に住んで良いということ。学校や職場の近くにしても良いし、犬が飼える物件にするも良し。住みたい町に住んでそこで仕事を探すという手もある。

 考え方が農耕民族か騎馬民族かで違うかも、という話を、以前知己としたことがある。私はあまり土地に対して思い入れが無い。と言うと語弊がある。郷土愛はある。ただ、どうしてもそこにとどまらなければいけないという感覚がない、と言えば妥当だろうか。転職に対しても抵抗がなく、まぁ選ばなければなんだってあるだろう程度の感覚でいる。

 だからこそ、更新の時期やなんとなく気分を変えたいときに引越しをする。

 引越しの作業自体やそれに纏わる手続きが面倒ではないのかと訊かれたことがあるのだが、面倒ではあるもののそれ以上に楽しいのだ。知らなかったことを知り、経験したことがなかったことを経験するのが楽しい。初めて頼んだ引越し屋、初めて行く町の役所、初めて通る路地裏。ポストの場所もわからず、歩いている内におしゃれな喫茶店や雰囲気の良いパン屋を見つけて自分の中に徐々にマッピングされていくのが楽しいのである。

 人生はセーブデータを引っ張り出してあと戻ることはできないけれど、オートセーブはされている。リセットして零からやり直しはできないけれど、一部だけのリセットはできる。自分にとってのリセットボタンのひとつが、引越しなのだ。

 知らない場所、知らない人ばかりの職場。

 そう言えば、転校を周りの大人たちは「可哀想に」と同情してくれたが、当の本人は楽しみにしていたのも今思い返せば同じなのだろう。新しい学校、新しい友達。

 人生のリセットボタンは、零にはならない。リセットして気持ちを切り替えても、経験は積み重なっていくし、縁があれば知己も増えていく。

 とは言え、大好きな町に身を落ち着けるというシチュエーションも憧れが無い訳ではない。終の棲家を見つけるための、まだ旅の途中なのかもしれない。

#prose

電気ブランの思い出

 女はタイミングだと言われることがある。そんなのタイミング次第で、男としては努力できることがなにもない、お前たちの気分次第で可不可が決められるではないか、と。

 でも、実はそういうわけでもない。タイミングというのは天運とイコールではないのだ。

 電気ブランというお酒がある。明治時代にできたブランデーベースのカクテルで、電氣ブランデーというのが元の名前だった。

 何故電気かと言えば、電気が珍しかった時代、新しいものに電気◯◯とつけるのが流行していたからだそうで、現代の感覚から言えば全く電気は関係がない。そしてブランデーベースではあるが、ワインやジンなどをブレンドしたリキュールなのでブランデーではない。そこで、「ブラン」になった。

 なんともレトロな雰囲気の漂うお酒なのである。

 ある時連れて行っていただいたお店に、電気ブランが置いてあった。

 丁度『夜は短し歩けよ乙女』を読んだばかりだったので、ひとり興奮した。

 このお店に連れてきてくださった方は、私が電気ブランを飲んでみたいと思っていたことなどご存知ではない。なぜ「うわー、電気ブランだー!」と興奮しているのかもおわかりではない。それでも、飲んでみたいけれど自分が飲める味なのか気にする私にどんな味なのかを説明してくださり、飲めなかったら自分が飲むからと言ってくださった。それで背中を押されて頼んでみた。

 初めて飲んだ電気ブランは、とても甘くて少しアルコールが強く、ピリッとしてとても美味しかった。

 電気ブラン自体が美味しかったというだけでなく、たまたま読んだ本に出てきた、それが目の前にある、意図せず出会えた、このお店に今このタイミングで連れてきてくださった、なんて、流石だなぁ! と思った。

 そんなの偶々ではないか、と思われるかもしれないし、確かにそれは偶々なのだが、それだけではない。背中を押してくださるスマートさ、どんな味か説明できる知識の豊富さなどの様々な要因が重なった結果、してくださったこと全てが有り難い、嬉しかったという印象として、電気ブランの美味しさと共に心に残っている。

 普段から紳士的な振る舞いをされる方で、とても頭の良い方なので、余計にそんな印象になるのだ。

 という話を友人としていたら、

「全然紳士じゃないよあの人。俺たちといる時はシモネタだって酷いよ」

 と言われた。

 そう言われても、それはそうでしょうねぇという気持ちになった。男同士で盛り上がればそんな話になることもあるだろう。

 羽目を外す時は外せるし、女性の前で下品なことを言わないデリカシーを持ち合わせているのであれば、寧ろやはり紳士なのではないか。

 偶々だとしても結果が全て。その結果を引き寄せてくれたのは他でもないその人であり、その人の持つセンスや性格や知識なのだから、こちらとしては偶然ではなく必然に近いのである。

#prose

https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=asairtheusumu-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=B001TZASY8&linkId=0b70c2a85e711b2b0a917ae6297c8521

https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=asairtheusumu-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4043878028&linkId=bca353c639f556188d5c8aec78310a3e

彼岸と此岸を繋ぐ

週末久し振りに電車でお出かけしましたら、あちこちのお花屋さんで仏花を売っていました。

なるほど、お彼岸前の週末だから、お墓参りに行かれた方も多いのでしょうね。

彼岸とは、春のお彼岸は春分の日、秋のお彼岸は秋分の日を中日として、前後3日間、合計7日間のことを指します。

今日は彼岸の入り。最後の日は彼岸明けと呼ばれます。

彼岸というのは仏教用語で、波羅蜜(サンスクリット語でパーラミター)という悟りの境地に至るという意味の言葉の意味を「至彼岸」としたのが由来だそうで、煩悩の川を越えて彼の岸(かのきし、彼方(あちら)の岸)に至るということです。

つまり涅槃、極楽浄土、天国ということですね。

西遊記でも西を目指しますからご存知の方も多いかと思いますが、

太陽が沈む西という方角には特別な意味があります。

彼岸の期間に煩悩を払うための修行として西に祈りを捧げるのですが、

春分の日と秋分の日の中日は、太陽が真東から出て真西に沈み、

真っ直ぐに西方浄土に祈りを捧げることが出来ます。

このことから、お彼岸にお墓参りをすると彼岸に通じやすいという考えで

お彼岸に法要を行うようになったそうです。

仏教が元になっていますが、日本の仏教は日本で独自に発展したものであり

彼岸というのも日本独特の風習です。

そしてまた、仏教が伝わる前から太陽への信仰があり、それがお彼岸と結びついたとも言われているそうです。

お天道さまが見ているから、という言葉もありますし

日本人は自然と密着して生きてきているので、なるほどと思わされます。

お彼岸の期間、いつも以上にご先祖様に思いを馳せつつ丁寧に過ごせたらなとおもいます。

#article #blog

ドアの向こう

今日は久し振りに六本木へ行きました。

昔勤務していた会社が六本木にあったので懐かしい街ではあるのですが、

その時とはお店や建物も変わっていてなんだか寂しい気持ちになりました。

それでも、今日行ったビルの別のフロアに、昔よく利用していた銀行がまだ入っていて

変わっていないこともあるわけで。

時々、自分はなんでこんなところにいるのだろうと思うことがあります。

悲観的な意味でもなければ肯定的な意味でもなく。

ただ単純に、不思議だなと思うのです。

どうして、なんの因果でこの場所のこの環境にいるのだろう。

別に六本木で働きたいと思ったわけではないのに

気がついたら”ここ”にいる。

ここを目指そうと決めて、選んできたわけではない。

でも、ここに至るまでの道筋は自分で決めてきた。

小山宙哉先生の漫画『宇宙兄弟』222話に、「夢のドア」というお話があります。

宇宙飛行士が若者たちに話をするシーンで、

人の人生には

いくつもの“夢のドア”がある

引用元:『宇宙兄弟』23巻

という台詞が出てきます。

大きな夢を持った時、その夢のドアがあまりに大きく

開けられるわけがない、と諦めてしまう。

でも、大きなドアがあるのではなくて、小さなドアがいっぱいあるだけだ、と。

そしてその小さなドアを開けるたび

君らの夢がひとつずつ叶っていくのがわかるはずだ

君らには

そのためにやるべきことがある

手探りでも何でもいい

意地でも次のドアに手をのばし続けることだ

そんなことしてる間に――――

気付いたら

宇宙遊泳とかしてるかもよ?

引用元:『宇宙兄弟』23巻

一言で言うなら夢を諦めないということなのですが

このドアのたとえと「気付いたら」というのが非常にしっくりきたので

とても印象に残っています。

目の前にたちはだかる壁を越えたりドアを探して開けたりして

それをずっと続けていると気がついたら思ってもみなかったところに出ている。

それが抱いていた夢の先かもしれないし、全く違うところかもしれない。

いつかは目指すところに辿り着くかもしれない。

大事なのは、進むこと。

目標達成のコツとしても、大きなゴールを決めて、そこまでの間に

小さなゴールを決めるというのがよく言われます。

きっちり計画的に開けると決めていた小さいドアでも、

手探りしていたら手がドアノブにぶつかっただけでも、

取り敢えずは開けないより開けた方が良いはず。

私が今いるここは、大きなドアの先にあると思っていた世界ではないけれど

都度小さなドアを開け続けて辿り着いた場所で、

振り返ってみれば叶わなかったことばかりではない。

一気に大きなドアを引き開ける力は持っていないし

目的地に直結できるどこでもドアも無いけれど、

だからこそこの先も、小さいドアを開け続けていくしかないのだろうと思います。

それがいつか、気がついたら目指していた場所に立っていた、ということになるように祈りつつ。

#blog

https://www.amazon.co.jp/%E5%AE%87%E5%AE%99%E5%85%84%E5%BC%9F-23-%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0-KC-%E5%B0%8F%E5%B1%B1/dp/4063872947/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&linkCode=li2&tag=asairtheusumu-22&linkId=9db332b0226ccbe0df6fb2bce922dd11&language=ja_JP

かわいいおばあちゃん

知らない人に話しかけるということ

道を訊かれやすいということは、多分よく言えば良い人そうに見えていて、

悪く言うなら押しが弱そうに見えているのかなと自分では思っている。

話しかけやすい、きっと答えてくれるだろう、という印象。

自分は人に道を尋ねた経験が無いのでよくわからないのだが、

自分に道を訊いてくる人の中で良い人は良い人だけれど、

嫌な人は訊くだけ訊いてお礼も言わず不満げに去っていくので、

単に舐められているんだろうなと感じることもある。

道を訊かれやすい人は痴漢にも遭いやすく、

一昔前なら写真を撮ってくれと頼まれる人なのではないだろうか。飽く迄も自分の経験則であるが。

そう言えば、遊園地などに行くと必ず一日三回は写真を撮ってくれと頼まれると言っていた人が、

眼鏡をかけ始めたらめっきり言われなくなった話を聞いたことがある。

良い人そうなオーラが、眼鏡でちょっと固くなったからだと思われるのだ。

それはさておき。

道を訊かれたら知らない場所でも自分のスマホを駆使したり交番へ訊いたりして

時間の許す限り調べて案内し、答えるようにしている。

それで「あっそう」とか「本当に?」と何故か疑われて不愉快な思いをすることも

わりかしあるが、そのせいで自分のスタンスを変えるということはない。

中には丁寧に礼を言ってくださる方もいらっしゃるし。

何故だか旅先で道を訊かれることも多く、自分も観光客なので全くわからないよ

と思いつつも答えられる範囲で答えている。

道を尋ねられるのではなく、世間話や質問を受けることもある。その中でも、嫌な思いをしたこともあれば、楽しくお話を終えられたこともある。

中でも、可愛かったなと思ってちょっと印象に残っている話がふたつある。

ひとつは、新幹線の中だった。一人旅でそこそこ混んでいる東北新幹線の中

携帯電話で文字を打っていたら隣のおばあちゃんに話しかけられた。

「本当に打つのが早いのね。どうしたらそんなに早く打てるの?」

一瞬いろんな回答が頭の中を過ぎったが、やはり回答を求めての質問ではなかったようで

おばあちゃんの方から事情を話し始めた。

携帯を持っていて使いこなしているなんて十分恰好良いおばあちゃんだと思うのだけれど、

ご自身では入力に時間がかかるのが悩みだそうで、

そんなものは慣れだと思うのだが、お孫さんが「返信が遅い」とご立腹なのだそうだ。

自分もパソコンを始めたときはタッチタイピングが出来なくて悩んでいたけれど

いつの間にかできるようになっていたので

やっぱり慣れだと思うので、やんわりとそんなことを織り交ぜつつ相槌を打っていた。

しばらくお話して、共感を得られて満足されたのか話は終わったのだが

あのおばあちゃんはお元気だろうか。

あれからもずっと使っていたとしたら、スマホもタブレットも使いこなす

おしゃれなおばあちゃんになっていると思う。

もう一人もやはりおばあちゃんで、旅先でATMによりお金をおろして

横断歩道で信号が変わるのを待っていたところに話しかけられたのでちょっと警戒した。

が、私がそのお財布を入れて持っていたフェイクファーのバッグが気になったのだそうだ。

「とても素敵なバッグだけれどどちらでお買いになったの?」と。

生憎地元で買った安物なもので、ブランドやサイトやショップをお伝えできるものではなかったのだけれど

お孫さんへのプレゼントにこんな可愛らしいバッグが良いかも、と思ったのだそうだ。

信号が変わるまでのほんの少ししかお話しなかったけれど、

その後良い贈り物が見つかっていたのなら良いのだが。

町中で素敵なバッグだなとか、この人すごいなと思っても、

実際にそれを声に出して話しかけることは

恥ずかしいとか、あとは今の時代声掛け事案にもなりかねず、変な目で見られる可能性も高いし。

でも、ちょっとした世間話は、できることならこの先の世も、あってもいいのではないかと思う。

今はまだ邪念が先に立って知らない人に話しかけられないけれど、おばあちゃんになる頃には

旅の恥はかき捨て的に勢いで若い人に話しかけることができるようになっているものだろうか。

もしそうなれたら、かわいいおばあちゃんだったな、と相手が後々までふと思い出すような

かわいい質問をする良きおばあちゃんであれたらなと思う。

#blog

保育園の朝

通勤路に保育園がある。通勤するタイミングによってはちょうど通園時間と被るようで、お母さんに連れられてちびっこたちが登園してくる。

その保育園の前には警備のおじさんが立っている。警備会社の方なのか園児の父兄なのかシルバー人材センターの方なのはよくわからないが、蛍光テープの貼られたベストを着て帽子を被り、誘導ライトを持っている。

その方が、いつもちびっこの姿が見えると遠くから「おはようございます」と声をかけ、そして彼らが保育園の近くまで歩いてくるとわざわざ屈んで子供と目線を合わせて「おはよう」と声をかけ直すのを見るのが、なんとなく好きだ。

ラッシュ時はもはや屈伸運動のように結構なペースで立ってはしゃがみを繰り返すことになるのだが、労力を厭わずそうしていらっしゃる。

子供の中にはわーっとかけよってそのまま抱きついている子もいて微笑ましいのだ。

挨拶をしただけで声掛け事案になるような世の中だし、それも致し方ないご時世だけれど、やっぱり人は人と関わることで笑顔になるのだと思う。

#blog

#blog

かみしもの区別

小さい頃、母親に口を酸っぱくして言われていたことのひとつ、

「かみしもの区別をつけなさい」 という台詞。

母から見て私はきちんとできていない方だったと思われるが

そんな自分から見て現代の日本はかみしもの区別がついていなさすぎである。

外でところかまわず地べたや階段に座り込み、

立った時に払うでもなく、そのまま帰宅して家の中でも座ってしまう。

鞄を地面に置いてしまう上、その鞄をテーブルにも平気で置く。

公園のベンチの上に靴を履いたまま立つ、散歩させていた犬を載せる。

汚いという感覚がないし、上下の区別がついていないのだ。

以前大河ドラマを見ていたら、藩主からもらった物を頭上に掲げて持ち帰り

ふらふらになって倒れそうになっても上に掲げようとし続け

事情を聞いて慌てて他の者が受け取り頭上に掲げるというようなシーンがあったが

この感覚がもはや無いのではないだろうか。

家では高いところにあるものを取るのにも、テーブルの上に載るのは許されなかった。

食事を載せるところであり足蹴にして良いところではないから

椅子や脚立などを持ってくる。

寝ている人をまたぐのもNGだし、枕をまたぐのも駄目だった。

理由は、頭を載せるものだから、である。

そう言えば、剣術道場でも、真剣だろうが居合刀だろうが木刀だろうが

他人のものはもちろん自分のものも跨いではいけないと

師範がやはり厳しく仰っていた。

これも同じであろう。

テーマパークへ行った時、周り中が土足で縁石やフェンスの上に乗って

パレードを見ようとしている中で、ある家族だけが石造りのベンチの上に

靴を脱いであがっていたのを見たことがある。

寧ろこの家族の方が特殊に映ってしまうほど、今の日本はかみしもの感覚に疎い。

人が食事をしているテーブルの横に鞄を置き、

注意しようものならこちらがうるさい、潔癖症と馬鹿にされる始末だ。

勿論衛生問題もあるが、やはり観念の問題である。

礼儀の問題なのだ。

こればかりは感性の問題であり、ならぬものはならぬの世界なので

そうした感覚がないまま育ってしまうといくら言われてもぴんとこないのではないだろうか。

電車で子供が窓の方を向いて座席に膝立ちになりたがるとき

靴を脱がせる親も見なくなってきたし、

人混みで子供を抱きかかえる際、靴を脱がせる光景も見なくなった。

時々傘を真横に持ったり腕にかけて斜めになって人を刺しそうになったり

電車内で高い位置に持っていて前に座っている人の膝を水滴で濡らしたり

といった持ち方が話題になるが、

石突の部分を地面につける、地面の方を向けるというのも

かみしもの感覚が関係してくると思う。

かみしもの区別の感覚が無い人にとっては些細なことなのだろうが

本来の日本人としての感覚が薄れているようで空恐ろしくなるし、

自分の親もそう感じて自分にしつこく言っていたのかなと今にして思う。

もしかしたら、神棚のある家が少なくなってきたというのも

かみしもの区別がつかなくなってきた理由なのだろうか。

神様だから神棚は上に作るし、一番上に作れない事情があれば

天井に雲を貼る。

結界という考え方があれば、家に入る前に

江戸時代のように足を洗うまではしなくとも穢れを祓い

手を洗い清めて部屋着に着替えるのが当たり前だと思う。

雨は嫌いではないのだが、傘や靴の扱いを見ていると

雨の日の電車は、そんなことをつらつらと考えてしまうのだ。

#blog