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常に刹那的に生き続けられるなら、それは 生涯幸せ なのかもしれない

今、NHKのドラマで『トクサツガガガ』というのをやっている。名言の連発だと聞いて興味が出て見てみて、漫画も途中まで読んでいるところである。

それでちょっと思い出したことがあるので、書いてみる。

幼稚園の頃、遊園地でキャラクターショーがやっていて

大好きなアニメのヒロインものだったので観に行ったのだけれど、

私は可愛くない子供だったので「あぁ、着ぐるみだなぁ」と思ってしまった。

グリーティングが始まって親に勧められても「別にあれ本人じゃないし」と思ったし

子供たちと一緒に並ぶのが恥ずかしいと感じて、

でも親の勧めを無碍に断るのも良くないと思う程度には

やっぱり可愛くなかったので、渋々並んでサインをもらい、握手をしてもらった。

薄い布の手袋越しに伝わってくるほど熱く汗ばんだ手だったのを、今でも覚えている。

戦隊モノや仮面ライダーにはご多分に漏れずはまり、

幼稚園の頃の夢は「大きくなったら◯◯戦隊のピンクになる」だった。

そう言えばいつ頃から番組を見なくなっただろう。

小学生の頃にはもう見ていなかった気がする。

中の人がいると気がついてショック、という類ではなかったはずだ。

なにせ、布やプラスチックなのに切られると火花が出るのに違和感を覚えるほど

可愛くない幼稚園児だったので。

(あの音と火花で特殊素材感を出す思い切った演出、とても素晴らしいと思う。

初めにやった人天才だと思っている)

幸い「男の子の見るものなのに」と言うような親ではなかったので、

変身ベルトや合体ロボットも買ってもらって男の子たちと一緒に遊んでいた。

だが、ランドセルを選ぶとき黒を選ぼうとしたときは止められた。

目立つ、いじめられる、普通女の子は赤だよ、といった理由だったと思う。

私は幼稚園まではピンク色やレースのふわふわしたものを好んでいたが

いつ頃からかそういったものが恰好悪いと感じるようになり

青や黒のものを選ぶようになっていった。

未だに私の事をよく知らない人からは、

似合いそう、と言ってピンク色で大きなリボンのついたものなどを

いただくこともあり、実は困ることがある。

周囲の人から見る私のイメージカラーは、ピンクや紫らしいのだが、

本人はそうした女の子っぽいものを避けるようになり

中学生になった頃には制服以外でスカートは穿かず、

ショートカットでジーパンを好んでいた。

女嫌いで、男に生まれたかったとずっと思っていた。

(これは今でも思わなくはないが、女は女でいいなと思えるようになった)

しかし変身ベルトを買ってくれた親でもこれは許してくれなかった。

恰好良いと思っている服装を、不良のようだと罵られた。

当時好きだったバンドも、目の敵にされてしまい

泣いて頼んだが一度もライブに行かせてもらえなかった。

グッズを家に置いていると、写真集を破られたり録画を消されたりするので

中学校の自分のロッカーに避難させていた。

今にして思えば人生において唯一人の、同じレベルでオタク話ができる

同じものが好きなオタク友達との付き合いも、

あの子の悪影響で娘が不良になったのだパターンで邪魔をされ、

疎遠になってしまった。

そう言えばあの子は元気にしているのだろうか。

一度だけ電車で会って普通に挨拶してきてくれたのだが、

私は親が彼女の親を通して何を言ったりやったりしたのかと思うと

後ろめたくてうまく言葉を継げなかった。

そんな不遇の中学・高校時代という暗黒の時代を抜け、

一人暮らしをするようになって、狭いワンルームにポスターを貼った。

堂々とCDをかけて歌っていても怒られない、正に自分の城だった。

そして、遂にチャレンジしたのがライブである。

初めは尻込みしていたのだが、バイト先の先輩に

「一人で行く人なんていっぱいいるよ、大丈夫。折角だから行けばいいのに!」

と言われて素直に感化され、早速次のライブはチケットを取って行ってみたのだ。

初めて行ったときは流石に緊張した。

でも、この周りにいる数百人の人たちがみんな同じ人が好きな仲間なんだという事実に、

それだけで胸が熱くなったし、生で聴く音は大変恰好良かった。

それ以降味を占めて、東京公演は必ず行くようになった。

因みに、先輩に「お蔭でライブ行けました」とお礼かたがた報告したら、

「本当に行くとは思わなかった、危なくない?」と大層驚かれた。

傍から見ればふりふりのドレスが似合う弱そうで小さい女の子が

たった一人でダイブもモッシュもあるライブハウスに行ったと聞いたら

確かに驚くかもしれないと今から思えば思わなくもない。

が、あなたが行けって言ってくれたのに。笑

このバンドについてはネットで知り合った人で気の合う人が

ひとり、ふたりはいたのだが、住んでいるところも遠かったし

なかなか自分と同じテンションで好きな人というのは限られてしまうもので

一年ほどで2人ともこのバンドのファンを卒業してしまった。

当時今くらいSNSが浸透していれば、もう少しゆるゆるとでも

付き合いが続いていたかもしれないが。

未だに、自分のオタクに付き合ってくれる友人はいるが

同じ深度で沼にはまっている友人がほぼいないので、

リアルな友人関係で誘い合ってオタ活ができる人は大変羨ましい。

一緒に推しを見て、その後語り合うというのはやっぱり最高だと思う。

中学生の頃、マイナーなバンドが好きな友人同士で

掲載されている雑誌を割り勘で購入し、

それぞれの自分の推しが載っているページを破り取って分けあっていたことがある。

大人になった今、雑誌を一冊まるごと買うくらいの甲斐性はあるわけなのだが

やっぱり一人で買って読むよりも、みんなで一緒に楽しんだ当時の方が

楽しかったような気がする。

ライブやお芝居に一人で行くのは慣れたし一人の気楽さもあるけれど、

帰り道はこの感動を誰かと語り合いたい、

誰彼構わずツアーのショッピングバッグを持っている人を捕まえて

感想を言いたいし聞きたいと思うことはしょっちゅうだ。

年齢を重ねれば重ねるほどオタク仲間を見つけるのにはいろんなハードルがある。

オタク活動自体がそもそも大変だったりもするわけなのだけれど、

好きなものは好きなのだから仕方ない。

良い歳してみっともないと言われようとも、適正年齢のときには

あのコンテンツもこのコンテンツも存在しなかったのだから、

今を楽しむのみなのである。

#blog

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見た目の話

 私が生まれたときの写真は、親族中で「父親にそっくり」と評判だったらしい。撮られた時代がわかる要素を排除すればまったく区別がつかないレベルで瓜二つだと言われていた。

 くりっとした目や柔らかい眉毛など、顔のどのパーツを取っても確かに父親似である。食事の好みも父似だったが、黒子の多さは母似だろうか。体型などは母親似に育った。母方一族は私が知る限り先祖代々小柄である。そして身長も手伝って、若く見られることも多い。

 小学生くらいまでは年齢相応か寧ろませていると見られることが多く、自覚的にも父親似だった。

 中学生の頃、母の代理で父と会合に出席して、母に間違われたことはある。

「そっくりだけど(子供過ぎて)何か違和感があった」と言われた。

 高校生の頃、母のお使いで初対面の方へ届け物に行った時、先方が気づいて声をかけてくれ、

「お母さんにそっくりだからすぐわかったよ!」と言われたこともある。

 しかしそれでも自覚的には父親似だったし、母の方でも「別に私たちそんなに似ていないよね」という感想だった。

 ところが二十歳を過ぎ、家族旅行で撮った写真を整理していた時のこと。自分の写真だと思ったら母の写真だったことがある。それくらいから、自分も母も互いに「似てきたよね」という実感が出てきた。パーツは相変わらず父似のままだと思うのだが、全体の雰囲気が母に似てきたようなのだ。背格好だけではなく、醸し出す何かが似通っている。

「母に似ていると言われる」をいう話を知人にしたら「それは嫌だね!」と返されたことがあるのだが、自分は寧ろ嬉しい方だった。

 小柄で可愛らしく手先が器用で料理上手。小さい頃は母が手作りしてくれた服を着ていた。ワンピース、ポシェットにヘアゴムも全てお揃いでとても嬉しかった覚えがある。お洒落でセンスも良かった。

 白いワンピースに麦わら帽子を被って、手作りのお弁当が詰まったバスケットを持って海へデートしに行くという、今思えば少女漫画に出てくるような女子力の高い女子だった。

 残念ながら多分その辺りは似ていない。見た目にそぐわずサバサバしているところだけはよく似ている。

 若く見られるのはまぁ良いとして、おとなしく見られるのは母と私共通の悩みでもあった。おとなしい、だけなら良いのだが、それで舐められることが非常に多かったからだ。ならば見た目で威嚇しようと髪型や髪色、服装を変えてはみるのだが、全く効果はない。

 本人たちはヒグマの威嚇くらいのつもりが、傍からはレッサーパンダの威嚇にしか見えていないのだと思われる。

 近頃はいい加減歳を重ねて、十代に間違えられることはなくなり、痴漢に遭うことも少なくなり、舐められ具合も昔ほど酷くはなくなってはきた。

 それなりに童顔な方だとは思うが最近はみなさん若々しい方も多いので、年齢相応かやや下くらいに見えているのかなと自分では思っているのだが、先日食事をしていたカフェで学生に間違えられた。お世辞かと思ったら、大真面目に「もうお仕事されてるんですか?」とかなり驚かれて、逆にこちらが驚いてしまった。

 ただ、その後鏡を見たら目がキラキラ、お肌ツヤツヤ、大変幼い顔になっていて、確かに学生に見えなくもない我ながら驚愕の幼さで映っていた。

 久し振りのフリープランの一人旅を満喫して良いものを見て満足していたのが要因と思われる。

 反対に疲れているときは自分でも驚く不細工さで鏡に映ることもあるわけだから、これは努努気をつけなければならない。

 必ずしも若ければ良いとは思っていないが、若々しく楽しそうに、明るそうに見えている方が良かろうとは思う。常時は無理でもできるだけ高い頻度で良い笑顔でいられるように、良いものをインプットし、またアウトプットしていきたいものだと思う次第。

#prose #blog

絵本の記憶

 この数年、絵本が流行っているという。特に大人に流行っているのだとか。

 斯く言う私も、『翻訳できない世界のことば』など気になったものは数冊購入した。

 ただ、小さい頃読んだ絵本の記憶は正直言うとあまり無く、世間で言われている有名な絵本はいまいちピンとこないものが多い。

 私は結構な活字中毒である。文字があったら読まずにはいられないし、暇な時間があれば使う予定がない商品の説明書でも兎に角読み始めてしまう。活字が好きなのは人生においては多分、嫌いな人に比べたら生きやすいだろうという母の配慮のお蔭で、相当早い時期から毎晩寝る前に絵本の読み聞かせをしてもらい、続きを夜まで待てなくて自分で読み進めるようになった。初めはひらがなしか読めなかったが、ルビがふってあれば漢字が入っていても大丈夫だったし、難しい言葉は訊いて教えてもらった。そしてお話を読み終えたら、それを誰かに読み聞かせるのも好きだった。音読するとまた違った印象になるし、理解も変わってくるからだ。本の中に書かれていなかったことや、その後の物語について空想してみることもあった。それをノートに書き留めて親に披露してみたり、ぬいぐるみに話したりした。時にはぬいぐるみたちを役者に見立てて、芝居仕立てにしていたこともある。

 夏休みに十冊は本を読みなさいという宿題で困ったことがないし、読書感想文で困ったことと言えば文字数を削って制限枚数内に収めること、そして子供らしい表現に留めなければならない点だった。要するに、可愛くない子供ではあっただろう。自分の年齢が対象の本はすぐに幼稚っぽくてつまらないと感じるようになり、まだ絵本を読んでいるべき年齢なのに小学生用のハードカバーを読んでいた。そんな訳で、あまり絵本を読んだ記憶がないのかもしれない。

 数少ない記憶に残っている絵本と言えば、『三びきのやぎのがらがらどん』。トロルがなにかわからなくて、自分の妄想の中でどんどん恐ろしいものに膨らんでいった。その後指輪物語などのファンタジーを読むようになって、トロルがあっさり理解できたのはこの絵本のお蔭かもしれない。

 それから、もう一冊は『くるみ割り人形』である。親の仕事の都合もあり、旅や帰省は船や寝台列車を使うことが多かったので、その移動時間の為に新しく本を買ってもらえるのも楽しみの一つだった。駅の売店や近くの本屋で一冊買ってもらう。ある時選んだのがくるみ割り人形だったのだ。記憶に残っているのはストーリーよりも、くるみ割り人形である。家にはプライヤーのような形のくるみ割り器しかなかったので、人形でくるみが割れるというのがとても新鮮だった。そしてイラストの描き方も相俟って兄が憎らしくて仕方なかった。兄にどうにかして天罰を与える空想をしていた記憶があるので、やっぱり可愛くない子供だった気がする。

#prose

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人と刀の関係性 – 守り守られ生きていく

先日、三島へ行ってきました。

目的は佐野美術館の『REBORN 蘇る名刀』。

初めは面白そうな展示だけれどちょっと行けないかなと思っていたのですが、

日帰りでも行ける、お散歩にも良い町との情報をいただき三島行きを決意。

折角だから平日にゆっくりと行きたいなと思い

お仕事を調整して休みをとり、前乗りしました。

仕事を終えて真っ直ぐ東京駅へ。

早めに予約していたこともあり、お値段変わらなかったので

グリーン車です。

しかもほぼ貸し切り状態でした。

#うちのひっかけぷちを見てくれ

事前に得ていた情報で、田舎です、なにもないですと聞いていたので

そういう想定をして行ったのですが、

地元北海道の「なにもない」を想定していった為、三島駅に降り立ってみたら

全然都会でした。(笑) コンビニがある!

まずはチェックイン。ドーミーイン三島さんへ。

系列初めて泊まったのですが、テレビで大浴場や食堂の混雑状況がわかるの素晴らしいですね。

潔癖症で大浴場は修学旅行でやむを得ず入った以外避けてきたのですが

今回はお部屋にはシャワーブースしかついていないし

折角だからと大浴場へ行ってみました。

最近の大浴場は洗い場に仕切りもついているし、2、3人しかいらっしゃらなくて

のんびりできました。

流石温泉、ほかほかに温まりこの夜は短時間睡眠ながら熟睡。

水と言えば水道の水も美味しくて嫌な臭いも味もなく、

顔を洗うときでもストレスがなくて、水の綺麗な田舎出身者としてはとてもありがたいです。

都会だと時々口を濯ぐのも嫌なときがあるもので…。

お部屋が最上階だったこともあり、日の出が綺麗に見えました。

早々にチェックアウトしてまずは三嶋大社へお詣り。

御朱印も頂いてきました。

中には神鹿園が。大正八年に、町の発展を顕著にする為奉納したいという

三島呉服木綿商組合さんの尽力で、

奈良の春日大社から譲り受けた鹿さんたちだそうです。

町の中は豊かに水が流れていて、鴨や鷺がいて穏やかな雰囲気でした。

これは噂の先日風邪を引いてお休みしていた子たちでしょうか。

10時の開館に合わせて佐野美術館へ。

10人ほど並んでおられましたがほぼ女性でした。審神者率も高いのでしょうか?

中にはパネルもあって、写真撮影している方もちらほら。

売店に甘酒があったのが面白かったです。

さて、お楽しみの刀の展示。

比較的空いていたので順繰りに並んでじっくり見ることができました。

単眼鏡を持参していたので、地鉄や細かい傷などもよく見えます。

単眼鏡、2、3人の方がお持ちでしたが是非広くおすすめしたい。

美術館や博物館、お芝居を見る時などにも大活躍しております。

小さくて軽くて片手でピントも容易に合わせられるし、

最近はとうらぶコラボやカラーリングのちょっと可愛いものもありますので

本当におすすめです。

Twitterで、「エモい」という感想を事前に見かけていたのですが

確かに一言で言うならエモい展示でした。

大坂城落城、明暦の大火、関東大震災などの数々の困難に巻き込まれ、

刀が割れ、焼けただれ、ぐにゃぐにゃになったり鉄の塊となったりして

元はどんな刀だったかわからないものもあります。

そうなってしまって捨てられたものもあったでしょうが、

そんな姿になっても尚保存されていた刀もあった。

捨てないでいてくれた人がいた。

そして、焼き直しという手法を用いて再生し、守り伝えられた刀がある。

この事実だけで感無量でした。

ぱっと見では美しく見える刀も、よく見れば刃こぼれや深い傷が残り

その刀がどんな目に遭って今ここにあるのかと思うと

申し訳ない気持ちや素直に悲しい気持ち、そしてよく残ってくれたねという気持ち

言葉にするとなんだか安っぽいかもしれませんが

胸に迫るものがありました。

刀は人を切る為のものではない。人を守る為のものです。

「刀は武器です。しかし守り刀として作られたものもあります」

こういった趣旨のことはよく耳にします。

しかし、私は少し違和感があるのです。

道場で師匠と向かい合うとき、真剣ではなく木刀であるのに身が竦みます。

犬だったら尻尾を股に挟んでぶるぶるしたくなるほど、立ち会っただけで怖いのです。

本当に膝が笑い、身の毛がよだつのです。

それが強い人の力です。

そこに在るだけで無用の争いを避けることができ、周囲に安心を与えることができるもの。

刀は人を切る為のものではない。人を守る為のものだという意図はここにあります。

抑止力と言い換えてもいいのかもしれません。

人が刀を作り、刀が人を作ります。共に鍛錬し、修羅場を乗り越え

刀が人を守ってくれます。

単に切り伏せて守ってくれるだけでなく、傍にあることで力になってくれますし、

共に修行した日々が自信になってくれます。

そしてまた人が刀を守り、伝えていくのです。

焼けただれて曲がった刀を残そうという気持ち。

そして残して焼き直しをしようという気持ち。

焼き直しにはもちろんコストもかかりますし、

直したいと思うほどの刀への愛と、直すほどの価値、それを信じる気持ちも必要です。

再生された刀を多くの人が見たいと思って集まれば

焼き直された刀たちの価値もより高まるでしょうし

そうなれば次の世に残り伝えられていく可能性も高くなります。

少なくとも平成の次の元号の世には、刀がこうして

まだ守り伝えられていくのだと思えたことがとても嬉しかったです。

また、常設展示室「男の粋(いき)―装身具にみる」も楽しみのひとつでした。

筥迫や印籠、矢立などの小物がとても好きです。

レプリカをグッズとして販売してくれたらいいのになといつも思います。

見事な細工が、見ているだけでワクワクします。

図録も購入しました。

鞄のノートPC用ポケットに入れて大事に持ち帰ったつもりでしたが

表紙にちょっと傷がついてしまい悲しい。

でも繰り返し見ている内に大なり小なり傷はついてしまうと思うので

仕方ありませんね。

美術館の後は市内を散策。

カフェ・バンマリさんでランチを頂きました。

とっても素敵なお店でした。

楽寿園も伺い、郷土資料館や動物園を見て回り、

久し振りにのんびりできて楽しい旅になりました。

今回初めてスマートEXを利用したのですが、とても便利ですね。

本当に改札を通れるのかな…と往路は少しドキドキでしたが

当然ながら問題なく乗れました。

みどりの窓口に行かなくても良いし

手元に紙の切符がある訳ではないので

変更も簡単でとっても楽ちん。

またJR東海を利用する時には使いたいです。

郷土資料館が思ったより早く見終えられたので

復路は少し時間を早めてひかりでサクッと帰りました。

三島はちょっとお洒落な路面店が沢山あって、お茶をするにも目移りしました。

京都白川や東京の日野用水、長野の白川郷など、

水が流れる町というのはとても素敵です。

どこか心が落ち着きますし、空気も澄んでいる気がします。

また機会があったら行ってみたいです。

#blog #travel #刀剣乱舞 #三島とうらぶ

覚悟とチョコレート

小さい頃は、骸骨のモチーフは、なんとなくおどろおどろしいイメージがありました。

ロックとかパンクとかが好きな人が好んでつけているモチーフというイメージ。

でも、調べてみると世界中で、吉兆や輪廻など良い意味合いのモチーフとして使われていることが多い。

新選組局長の近藤勇さんも、稽古着に髑髏を刺繍していました。

古武術では決死の態度を意味するという話もあります。

しゃれこうべ 。風雨に曝された頭(こうべ)。そのままと言えばそのままですが、不思議な響きにも感じます。

不気味でもなんでもなくて、自分の体の中にあるもの。いつかはなる姿。

そう気付いた頃から、無意味に不気味がることがなくなってきました。

先日、チョコレート屋さんで骸骨のチョコレートを見つけました。

小さい骸骨が瓶に詰まっていて、スプーンで掬って、そのまま食べるも良し、

ホットミルクなんかに溶かしても美味しそうだなと思って

我が友の誕生祭の貢物にしました。

不退転。決死の覚悟。諸行無常。

ネガテイブに重くは捉えてはいませんが、多分日々に向かう姿勢としては

そんじょそこらの人から見たら

生き急いでいたり真面目過ぎたりして見えるかもしれない私たち。

普通に生きているだけなのに「なんでそんな深刻なの」と言われると

いや、普通ですけど…

時間は有限ですし…

と思って不本意ではありますが。

きっと前世でもこんな調子で。

今生でもまた巡り会えた貴重な戦友なのだと思います。

いつか共に事を起こして世界を変えたいと願いつつ

息を潜めて時を待っています。

ハチ公らしくお座りをして、伏せをして、

動きがあるとすわ散歩か⁈とすくっと立っているような感じ。笑

焦りはしません。全く焦らないというと嘘になるかもしれないけれど

歳を重ねて経験値を経て、今は魔王を倒す為のレベリングの最中。

多分、まだまだ旅の途中なのです。

今日も今日の自分にできることを、精一杯やって

いきたいと思います。

#blog

”自分”の積らせ方

 自覚はないのだけれど、「なんでもできるね」「なんでもよく知ってるね」と人から言われることは割と多い。その度に、「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」と某女史の名言を返したくなる。この言葉は非常に真理で、初めて聞いた時には全くその通り! と思った。別に自分で調べたことを知っているだけなので、すごいと言っていただくほどのことはなく、況してや羨ましがられるのは違うだろうと思うわけで。

 自分の知識の範囲が比較的広いというのは、確かに自覚している。そしてそうなった要因は三つあると思う。

 まず初めに、読書が挙げられるだろう。エッセイ、古典、漫画、資料集、なんでも少しでも興味を持ったものは読んでみる。図書館や本屋などでなんとなくタイトルに惹かれたり、装丁が好きだったものを手にとったり、自分が好きな作家や役者が好きだとあげていた本や、好きな本の参考文献に載っていたものも片っ端からリスト化して読んでいく。

 そこそこ記憶力はある方だとここは自負しているが、そうは言っても読んだ内容を全て覚えていられるわけではない。大事だと思ったことはメモを取り、感想を記録に残す。それを時折読み返し、時折本を読み返す。これを続けていると、広範囲でありつつも自分の中ではある程度系統立てて知識が積み上がってくるのだ。

 二つ目。疑問に思ったら調べるということだ。これはみんな当然しているものだと思っていたが、意外とそうでもないらしい。調べるのにもある程度の技能が必要なようで、オタク技能のひとつという意見もあるそうだ。

 これも元はと言えば本がきっかけだっただろう。家には百科事典や辞書が幼少期から揃っており、単なる読み物としても読んだし、なにか疑問があればページを繰った。図書館へ行けばより多くの資料があり、レファレンスサービスもある。調べてもわからないことは、父親に訊けばなんでも教えてくれた。正に、なんでもできてなんでも知っていた。(父という比較対象があるから、自分は全然物知りではないと思っているのだと思う)そこからヒントを得て自分で調べたりもした。

 今ではインターネットというものがあり、検索エンジンに言葉を打てばなんでも答えを教えてくれるので、調べることがより簡単になった。もちろんヒットする情報は玉石混交であり、取捨選択は必要なのだが、それは本や人の話でも同じことである。だからこそ、情報は多ければ多いほど良いと思っている。砂金を取るのに金だけを抓める訳ではないのと同じだ。たくさん取ってその中から洗い出していく。多角的にものを見てどれが正しいのか自分で判断できるようになる為の経験となっていくはずだ。

 最後が、手帳である。

 そも文房具好きになったきっかけが、父がくれた手帳と万年筆だと思う。父自身がそうしたガジェットが好きで、手帳も常に持ち歩いていた。幼い自分に手帳をくれた時、父は言った。

「なんでもそこにメモをしていくといい。八百屋の店頭の野菜の値段とか、迷い猫のビラにある猫の特徴とか、なんでもいいから毎日メモを取る癖をつけるといいよ」

 それを聞いた私は、そんなものをメモにとってどうするんだろうと思ったのが正直なところだった。だが、使っていく内にだんだんその意味がわかってきた。

 たとえば毎日トマトの値段をメモしていると、トマトの値段の移り変わりがわかり、その理由を考えると、季節や天候であったり時勢あったりなんらかの原因が見えてくる。傾向がわかって次に安くなる時期がわかるかもしれない。近くの食堂のサラダからトマトが消えた理由が見えてくるかもしれない。

 そんなくだらないことと思う事勿れ。これは世界を知り人生を学ぶことに繋がっていくのだ。大袈裟ではなく。こうした気付きが意欲にもなり学びを深くする。

 私は野菜の値段こそチェックしなかったが、その日あったことや体調、気持ちなどなんでもメモを取るようになった。受け取った手紙、もらったレシート、道端のポスターのこと。たとえあとで見返さなくても、メモを取る行為により記憶される地層が一段深くなり、少しだけ忘れにくくもなる。本や映画の感想、読みたい本やしたいことのリスト、意味を知らなくて検索した言葉、面白かった記事、時間が合えば行きたい美術館の情報、友達の誕生日や好きなもの。そこには自分自身の情報が溜まっていくのだ。

 今では手帳を持ち歩くことはなくなったが、スマホの手帳アプリで相変わらず同じことを続けている。アプリならパソコン、スマホとガジェット問わず情報が連携できるので、歩いていて思いついたことをスマホに入れて帰宅してからパソコンで調べて掘り下げて別のメモアプリに移すというようなことも簡単にできて良い。Evernoteに雑多に溜め込んだ情報は膨大になっており、きちんとまとめれば立派な文献になりそうな気もする。

 書き残すことで自分の好きなものにアンテナが張れるようになり、客観的に見ることもできる。好きなものの情報がどんどん溜まっていく。降り積もり、地層になり、そしてまた掘り返す。

 あれもこれもとあちこち掘り返して浅い穴があちこちに散らばり周りも散らかっているが、自分はなんとなくどこにどの穴があるかは分かってはいる。穴にはまって転ぶこともあれば、深みにはまることもあり。穴を放置することもあるが、前途中まで掘った穴をまた掘り始めることもある。そもそもどこまで掘れば最後かというと、最後など無いとも言える。

 掘っている内に横穴が出てきて別の穴と繋がったり、水脈を発見したりすることもあるのが面白い。穴が崩れて生き埋めになりそうになることもままあるが、それもまた大きな意味では楽しいものだ。

 今、穴の横の地割れの向こうに微かな光が見えていて、どこに繋がるのか楽しみなものがまたひとつ出てきたところ。

 ここまでの歴史の中で様々な人がいろんな形で積もらせてくれたものが、自分の中に降り積もり、また新しいものを形作っていくのだ。

#prose

150年という節目

2月5日は、旧暦の1月1日。お正月です。

新月。そして梅がほころんでいます。

旧暦で過ごすと、暦と季節がぴったり合っていて、本当はこんな空気感だったのだなと

度々気付かされます。

春の気配が感じられる新春です。

さて、先月の新暦のお正月。

2019年の初詣も、高幡不動尊へ参りました。

土方歳三没後150年ということで、幟や看板が設置されていました。

箱館戦争が終わったのは明治2年5月18日。

グレゴリオ暦の1869年のことです。

土方さんが戦死したのは5月11日。

故郷に対し、「何ひとつ恥ずることなきゆえ、どうかご安心を」という言葉を残した土方さん。

仲間と京都で別れ、江戸で別れ、流山で別れ、会津で別れ。

そうして当時外国と同じ感覚で扱われていた蝦夷地へ渡ることになりそこで戦い、

冬を越し、どんな思いでいたのだろうかと考えると

なかなかうまく言葉になりません。

先日所用で靖国神社へ行きましたら、こちらも創立150周年ということで

記念の御朱印や各種記念行事が予定されているようでした。

昨年2018年は、政府主導で明治150年としてイベントがありました。

明治維新後150年としているところもありました。

ただいずれにせよ少なくとも自分の周りでは、明治150年については

あまり盛り上がっていなかったように感じています。

自分としては明治維新それ自体に多大な疑問を感じており、

その後の政治の流れも疑問があります。

明治150年を祝う前に、解決すべきことがあるはずだと思うのです。

そのあたりについては、

星亮一・安藤優一郎 『東北を置き去りにした明治維新 戊辰戦争の謝罪なしに、日本の融和はない』

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などの本に詳しいかと思います。

明治になってから150年のその翌年が土方さん没後150年というのが

つまりまだ戦っている人がいるのを置いていて、明治政府だ、新しい時代だと

喧伝してきたのだということがよくわかると思います。

そもそも明治の元号にしたのは慶応四年9月8日。

明治元年と改元し1月1日に遡って適用することとしました。

つまりこれも、戊辰戦争の真っ只中。

この日も会津飯寺で戦闘が行われていました。

この頃の土方さんは部下には慕われ上司には嫌われていたようです。

何故なら戦場に出ない人には厳しい態度をとっていたそうで。

お偉方にとっては、農民上がりの癖に態度がでかいという感じだったのでしょうが

土方さんからしたら実戦経験もなく部下の先頭にも立たず机上の空論を押し付けてくるような人に

命は預けられないと思うのも当然な気がします。

土方さんは榎本武揚と仙台藩に交渉を重ねていましたが仙台が降伏し、

庄内を目指すも庄内も降伏し転戦が叶わず、

新選組と幕府軍は有志を乗せて蝦夷地を目指すことになります。

総勢約2000人。

将軍侍医だった松本良順は蝦夷行きに反対していたのですが、実は土方さんもそうでした。

でも、

「自分が反対だと言えば皆の士気が下がり脱走者が増え、榎本の戦力を削ることになりかねない。

そもそもこの戦は300年来の幕府が倒れようというのに

一人も腕力に訴え死ぬ者がいないのを恥じてのことで、勝算は無い。

君は前途有望なのだから江戸に帰ったほうが良い。

自分のような無能な者は決戦に挑み、国家に殉ずるのみだ。

ご好意は有難いが、俺は蝦夷地へ行きます」

と語りました。

松本先生は仙台で降伏しています。

勝算は無いと言いながら戦いに手を抜くことはなく

箱館へ渡ってからも土方さんが率いた隊は負け無しだったといいます。

遺品を故郷に届けさせるという名目で自分付きの小姓たちを外国船に頼んで脱出させ

弁天台場に孤立した仲間を助けようとし

勝ち目がない戦いを冷静に見極めつつも最後まで正に死力を尽くした土方さん。

新選組の歴史を学ぶとき、私はいつも土方さんに共感してしまうのです。

高幡不動でひいたおみくじに書かれていた漢字は、『命』でした。

生きることが奇跡の連続 毎日生まれ変わったように丁寧に生きよ。

忙しさにかまけて流されてしまうこともありますが、

日々できる限り丁寧に生きていきたいと改めて思うのでした。

#blog #prose

現代刀鑑賞会に参加してきました

刀を振ったことはあるけど観たことは無い私。

なんとなく恰好いい、なんか綺麗、だから好きというだけで

この目は、刃紋は、と語れる知識は皆無です。

勉強したいなと本を読んではみていますが

なかなか難しいなぁというところ。

機会があったら鑑賞会にも行ってみたいと前々から思っていたところだったので

Twitterで情報を見かけて早速申し込み。

逸る気持ちを抑えきれず早めに靖国神社へ。

折角ですしまずは参拝。

参拝自体は初めてではないのですが、御朱印をもらったことがなかったので

いただいてきました。

写真撮影をされている方も結構いらっしゃいましたが

ガードマンの方がいらして、

「参拝者の方のお顔が映らないように段を降りてこちらから撮影してください」

と声がけしてくださっているのが行き届いているなと感じました。

安心感があります。

遊就館も何度か行ったことがある場所。

おすすめの資料館です。

さてこの一階で行われた鑑賞会。

ちょっと早すぎるかと思いつつ行ったら、

もう普通に始まっていました。

一斉に作法について説明してきびきび、ではなくて

椅子が置かれていてゆるゆると説明をふわっと受けて

思い思いに見ていくスタイル。

初心者なのでもっと厳しくやってはいけないこととか作法とか

教えてもらいたい気もしつつ

気楽に見られるのは嬉しかったです。

男性も年配の方も多く、若い女の子ばかりというわけでもなくて

安心して見られる雰囲気でした。

私は刀の美しさを語るときに、

本来は人を切る武器だけれどとか

これは守り刀として作られたからとかいった前提が並べられることが

実はとても嫌なのです。

刀は、人が作り出したものです。

それは、人を守るためのもので、守り刀でも武器でもその本質は同じです。

刃物である以上切れ味が良いに越したことはありませんが、

武器である以上使わないに越したことはありません。

抑止力としての力、心の支えとしての力、それが刀の強さであり美しさです。

人が作り、人を守り、人に守られ伝えられていく。

それが刀だと思っています。

今回印象に残ったことのひとつなのですが、ある刀工の方が

自分の刀が守り方になり、それが代々その家に伝えられていくことの

魅力について話しておられました。

これまで自分はどちらかと言えば現代刀への興味は実は二の次だったのですが

今歴史がある刀と同じくらい、これから歴史を作っていく刀というのも

確かに素晴らしい魅力がありますし

その人の為に鍛刀された刀の美しさは格別のものがあると思います。

今この時代に自分がお願いして打ってもらうことの価値に

改めて気づくことができました。

そしてまた、歴史や伝統を守り伝えていくことの難しさや大切さにも

思いを馳せることになりました。

いつか刀を家にお迎えしたいと、なんとなくではなく具体的に考えるようになりました。

ご縁があったら是非と思っています。

自分の中で少し価値観の変化というか、成長があった有意義な一日となりました。

お土産もいただいてしまいました。

#blog #刀剣 #刀

サンタクロースは誰なのか

 小さい頃、何故か家にはスケートボードとローラースケートとアイススケート靴があり、どれも嗜んだことがある。

 幼い私のローラースケートは、運動靴にはめるタイプのプラスチックのもので、ある時転んだ時にパーツが折れてしまった。

 落ち葉の積もる季節だったことは覚えている。

「じゃあクリスマスにはローラースケートをサンタさんにお願いすることにする」

 と言ったら、母が

「でもローラースケートは夏に使うものだから、今から頼んでももしかしたら無理かもしれないよ?」

 と言った。

 今にして思えば、確かにその通りなのである。内心焦っていたであろう両親には大変申し訳なかったが、サンタさんだからきっとなんとかしてくれるよという謎理論で私はローラースケートをその年のクリスマスに所望したのだ。

 我が家は海外出張の多い父が、夜中に空をサンタさんが通るので私の欲しいものをその時サンタさんに叫んで伝言してくれることになっていた。満天の星空の下、船の甲板からサンタさんのソリに向かって父が叫ぶと、サンタさんは「わかったよ」と手を挙げてくれると言うのだ。美しい絵本のような光景が私には想像できて、それを素直に信じていた。サンタさんと知り合いである父を誇らしくも思ったものだ。

 だから両親は娘の欲しいものを調べることは苦労しなかっただろうが、秋口にローラースケートと言われてさぞや困ったことだろう。確か、リカちゃんハウスやシルバニアファミリーなどを薦められ、「第二希望も伝えておいた方がいいよ!」とアドバイスも受け、渋々考えて伝えた気がする。

 そしてクリスマス。当時ネットショップや検索も今のように簡単でありふれてはいなかった時代に、私の家に来てくれたサンタさんはローラースケートを届けてくれたのだった。包み紙を剥がしたときに見えた箱が第一希望のローラースケートだったときの嬉しさといったら。

 しかも今度はプラスチックではなく金属製のしっかりした作りのローラースケートだった。

 サンタクロースはいるのか。

 大人になった今、やはりサンタクロースはいると私は思っている。

 外国に本当にいるんだよ、という回答ではなくて、子供が期待するのは多分トナカイの引くそりに乗って夜空を飛び回るサンタさんだと思う。

 私には、空を飛べるソリが本当にあるかはわからない。けれど、サンタクロースはいる。

 私が好きな、演劇集団キャラメルボックスの成井豊さんが、エンジェル・イヤーズ・ストーリーという二〇〇九年のクリスマスツアーの時、パンフレットにこんな言葉を書いていた。

「サンタなんていないんでしょう」と子供が言ったときに、

 "堂々と子供の目を見据えて、「今まで隠してて悪かった。実は、パパはサンタクロースなんだ」と言ってほしい。だって、あなたはあなたの子を心の底から愛していて、だからプレゼをあげたんでしょう?"

http://www.caramelbox.com/stage/angel/

 実はサンタさんじゃなくてお父さんだったんだ、とか、いやサンタさんはフィンランドにいるんだよ、ではなくて、「お父さんがサンタなんだ」というのはとても素敵な言葉だと思うのだ。

 サンタはいると子供に夢を見させようとするのは大人のエゴでただの嘘だという言葉も目にすることがある。

 けれど、「自分がサンタだ」というのは紛れもないひとつの真実だ。

 良い子にプレゼントを贈りたい、プレゼントを贈ろうとする人たちは、それは立派にサンタクロースの”仕事”をこなしているわけなのだから。

 誰もが誰かにとってのサンタクロースなのだと思う。

 サンタさんから贈り物をもらったことがある人はきっといつしか自分がサンタクロースになり、誰かへ贈り物をするだろう。自分自身に贈り物をすることもあるかもしれない。

 メリー・クリスマス。平成最後のクリスマスも、みなさんにとって良き日でありますように。

#blog #prose