もうひとつの『池田屋』

 彦五郎は手早く羽織を脱いだ。手にしていた大刀の先に引っ掛けると、階段の上の方に徐ろに突き出した。日も暮れた宿屋の廊下。既に襲撃を察知し市次郎をピストルで撃って殺気立っている薩摩人達は、羽織を新手と勘違いして撃ちかけてきた。ぱんぱんと乾いた音がする。階段の上で待ち構えているのだ。薄暗い中に閃光が弾ける。
 音が鳴り止んだ間隙を縫って、彦五郎は素早く階段を駆け上がり、上にあった行燈を斬り倒した。辺りはぱっと闇に包まれ、時折短銃の音が響く中、二十人近い男たちの乱闘が始まる。数の上では倍近い人数がいた薩摩浪士たちは、仲間が二人斬り倒された時点で窓を破り逃げ出した。
 時は慶応三年十二月。十月に大政奉還が行われた。一体新選組はどうなるのかと気を揉んだ彦五郎だったが、別条なしとの連絡が入ってひとまず安堵したものの、翌日には近藤勇の義父、近藤周斎が病死し、勇と義兄弟の縁もあり、葬儀に参列した。
 その頃、薩摩の浪士隊は、江戸で挑発行為をして治安を悪化させ、幕府を怒らせて、向こうから手を出させようと画策を始める。江戸三田にあった薩摩藩江戸屋敷にはたくさんの浪士が集結していた。彼らは勤皇活動費として豪商から大金を巻き上げ、捕吏に追われると薩摩藩邸へ逃げ込むと言うあからさまな挑発を繰り返す。江戸中を荒らし、狼藉を働きつつ、江戸から西に移動していった。江戸幕府の軍事的拠点と言われる甲府城を乗っ取ろうと、甲州街道を進んでいたのだ。 
 代官からの依頼で、日野宿の名主佐藤彦五郎が助力を請われ、佐藤道場の剣士たちは目明しと共に、薩摩浪士のいる八王子宿の「壺伊勢」こと伊勢屋に乗り込んだのだった。幾人か捕り逃したものの、数日後に潜伏しているところを発見もした。味方より人数の多い敵が集まっているところに斬り込んでいったこの件は、まるで多摩の池田屋みたいじゃないかとおれは思っているんだよと、彦五郎は言った。彦五郎にしてみれば、勇たちが浪士隊として上洛したとき、名主の仕事がなければついてきたかったと思っていたほどの男だ。日頃勇と義弟歳三、馴染みの天然理心流同門の仲間たちの都での活躍を、はらはらしつつも羨ましく見守っていた。今回は甲陽鎮撫隊を任された勇たちに、自分も春日隊を率いて共に戦うつもりだった。
 すっかり立派になって大名のような出で立ちの勇に、自分は自分でここで頑張っている、だから足手纏にはならないというつもりで話したのだが、勇は彦五郎の話を聞いて驚いた。
「鉄砲とやりあうなんて危な過ぎるよ。おれだってまだやったことないよ」 
 それを聞いて、彦五郎は笑った。
「そうか、ならそこはおれの勝ちかな」
 そう言われて、勇も笑った。
「そうだな。おれの負けだ」
 その後、少し寂しそうに続けた。
「鳥羽伏見におれは出られなかったけど、歳(とし)が言ってたよ。もう刀や槍では戦えないって。もう、そういう時代ではないんだな」
「………」    
 勇は普段は飲まない酒を、地元の皆が凱旋と出陣の祝いで出してくれているので飲んでいた。 
 鳥羽伏見の前に肩を鉄砲で撃たれた勇は、まだ怪我が治っておらず胸のあたりまでしか腕が上がらなかった。酒を煽ろうとすると、ずきっと痛みが走る。
「大丈夫か、傷の方は」 
 顔を顰めている勇に、彦五郎は少し声を潜めて尋ねた。勇はにこりと人の良い笑みを浮かべる。
「なに、 右手が使えなくても左手があるよ」
 と、盃を左手に持ち替えて酒を飲んだ。
 ふたりは、顔を見合わせて笑った。 
 この先ふたりに待っている戦いは、砲や銃を相手にする戦いだ。開国の影響で治安が悪くなり、強盗や放火が増えた自分の村を自衛しようと、みなに刀を握らせようと彦五郎が作った道場に、勇が出稽古に来てくれていたあの日々。彼らの絆の始まりであったあの日々が、今はとても遠かった。
「随分遠いところに来ちまったよな」
 思わず彦五郎が呟くと、勇には伝わったらしい。
「そうだな」
 とだけ、答えてまた酒をあおった。
 開国の波に揉まれ自分たちの足で踏ん張ってきた彦五郎と勇は、今度は幕府の瓦解という時代の波に、またも揉まれることになるのだった。

切手のない手紙 #6

おかしらつき

 小さい頃からいろんな本を読んでいた。もう今ではなんという本だったかも思い出せないが、晩ご飯の食卓についた主人公の少年が 「わーい、おかしらつきだ!」 と叫ぶシーンがあった。

 おかしらとは頭だとは思ったが、なぜそれがそんなに飛上がるほど嬉しいのか、当時の私にはわからなかった。母に聞いて、頭と尻尾がついたまるまる一匹の魚のことだと教えてもらったが、それがどうして特別なのか理解できなかったのだ。晩ごはんに秋刀魚や鮎なんかが、まるごと一匹出てくるのはよくあるのに、そんなに特別なことなのだろうか、と。

 言葉の意味というのは、上っ面の意味だけで理解できるものではなく。尾頭付きの特別感が理解できるようになったのはだいぶ後だった。

 昔は冷蔵技術が今とは異なっていたこともあり、まるまる一匹の魚を一般家庭で用意するというのは大変だったのだ。

 大変貴重でもあり、切り分けられていないこと、「一つの事を初めから終わりまでまっとうする」ということから縁起も良いとされていた。

 だから、結婚式やお食い初めなどハレの日には尾頭付きが使われる。

 頭が左側なのも、左の方が上位だから。

 そう言えば、家の雛飾りはお内裏様が左側だった。向かって左にいるのがお雛様。地元の友人たちには「逆だ」「おかしい」とよく言われた。

 日常の何気ないところにも、長い歴史の中で培われたことが根付いている。

 それは、とても美しいことだと思うのだ。

旅の色

 旅が好きだ。

 誰かと旅するのも、ひとりで旅をするのも好きだ。

 旅の何が好きかと言えば、自分の知らない町を知ることができることだ。

 知らない町に知らない人がこんなにたくさん居て、生きている。

 そう思えること自体が興味深い。

 電車や飛行機で移動するだけでも、夜間に星のように散らばる家々の明かりを見るだけでもそう思う。

 誰かの為につけられた軒先の明かりや、ベランダに置きっぱなしになった三輪車を見ると胸がきゅっとなるのだ。

 旅で訪れる町は、どこか色が薄く見える。

 それもまた、旅の醍醐味だと思っている。

 薄くて目新しい。

 そしてその場所に滞在する時間が伸びれば伸びるほど、色は濃くなっていく。

 これは引っ越したばかりのときも同じだ。

 住み始めた時と、住み慣れた時では見える景色が違う。

 色濃くなり、自分の世界と同化していく。

 特定の場所に住まずに旅しながら暮らしている人は、世界中が色濃く見えているのだろうか。

 それとも、全てが目新しく見えるのだろうか。

手袋を嵌める時

 手袋を嵌める時。それはいつだろうか。

 寒くなったら。冬になったら。でも、それはいつからだろうか?

 最近の天気予報は便利なもので、服装のアドバイスもしてくれるものが多い。今日はトレンチコートが必要、厚手のコートがいいですよ、という感じなので、上着についてはその助言に従って選んでいるのだが、手袋を出すタイミングがいつも掴めない。

 ある時、無意識に、雪が降ったらするものと思い込んでいるせいだということに気がついた。北国では手袋がなければ指先は容易に凍える。手袋無しでは歩きながら雪玉を拵えることもできないしので重大な機会損失である。

 ところが雪が降らない地方では、そもそも雪が降ることが少なく、あっても非常に限られている。雪を基準にしていては、そもそも手袋をすること自体の機会が損失されてしまう。

 雪が降らないということは、そもそも雪が降らない程度には暖かいということなのだから、手袋は必要ないのではなかろうか。そんなことを考え出すと、ますます手袋をする機会が失われていく。

 同じく北国在住経験のある友人にこの話をしたら、

「たとえ周りの誰ひとり手袋をしていなかったとしても、手が冷たいなと思ったら手袋のしどきよ」

 と助言をもらった。

 確かにそのとおりだ。そのとおりなのだが、今の所冷たいけれどそこまでではないという感覚であり。未だに手袋をクローゼットから取り出してもいないのである。

 この季節は、雪が恋しい。

忘却の彼方

創作庵月雪花 (著), (巴乃 清, 愛月 律馬)

落としたもの。それは、初恋の記憶。

《あらすじ》
杉浦啓は、他人の落とした記憶が見えてしまう目を持っている。
そんな彼の唯一の理解者は、幼馴染の松元兼司。
大学生活最後の秋の連休、啓は兼司に北海道旅行に誘われた。落し物捜しに付き合ってくれというのだ。
もちろん、ただの落し物ではない。それは、兼司が小学校五年生の時に落とした淡い初恋の『記憶捜し』だった。

Kindle版 500円
※Kindle Unlimitedの方は無料でお読み頂けます。

紙書籍版 600円

試し読み (カクヨム)

秋の装い

 秋になると、何を着ていいかわからなくなる。毎年のことだ。何故なら、生まれ育った北国は温かい日と寒い日しかなかったからだ。

 そうは言っても東京に住んでそれなりに経つので、少しずつ『本州の秋』に対応できるワードローブは増えてはいる。増えてはいるのだが、本州の秋を読み切る心持ちがないのである。北国育ちにとって、寒いというのは命に関わるレベルの話だ。寒い=雪が降り、吹雪けば家の近所でも遭難することが可能なのだ。

 上京してすぐはつい地元にいるときの癖で、厚着をしがちだった。寒くてコートを着たら、中はもこもこのセーターなのである。しかし東京の人は、コートを脱いだらお洒落なフェイクファーのついたキャミソールだったりするから驚きだ。寒いなら厚着をするべきだ、という本能の叫びに耳を塞ぎ、自分の感覚で言う肌寒い夏の日の服装に上着やストールを足すくらいが丁度よいらしい、とわかってきたのは割と最近のことである。朝家を出て寒いと思ったら慌てて上着を取りに帰っていたが、今はそれをしなくなった。肌寒いくらいが丁度よい。日中に太陽によって空気が温められるだけでなく、都心は人いきれや排熱で思ったより温度が高くなり、蒸し暑くなる。

 そうした経験値を得るまでにだいぶかかった。今までの常識を捨てるのに時間がかかたっと言うべきか。九月に入ればもう秋でまもなく雪が降るという感覚だったので、秋の紅葉も九月だと思ったまま、関東であちこち紅葉狩りに出かけてはまったく紅葉していなくて失敗したことも屡々。都会の秋は十一月なのだ。十月も半ばだが、コートにはまだまだ早い。

 薄い長袖に上着、でも満員電車では暑くなる。かと言って満員電車だからと冷房が入っていて、吹出口の直下だと寒くて堪らない。都会の温度調整は難しい。まだ半袖を着ている人もいて、中には自分と同じ寒がりなのか既にジャケットを着ている人もいて。いろんな服装の人が入り交じるのが、都会の秋の光景のひとつだと思う。

板の上で生きる人

 芝居というものが好きだ。自分が芝居を囓っていたこともあって、真剣に役者をしている人にとても惹かれる。中でも、舞台役者が特に好きだ。

 芝居というのは難しいもので、テレビドラマで上手に役を演じられる人がアニメの吹き替えがうまくできるとは限らないし、舞台役者が映画用の演技ができるとも限らない。(その場に合った演技に合わせることができる器用さのある役者は、違うジャンルに行っても成功するわけだ。)種類が違うからだ。

 ドラマや映画なら、物語は一度で終わる。リテイクなどはあるにしろ、物語の流れ自体は普通一度だ。しかし監督のやり方にもよるが、撮影は物語の時間軸通りではなく、効率の良い順番で撮られていく。

 これに対して舞台は、物語の時間軸通りに過ぎていく。役者と観客は同じ時間の流れを同じ時間で共有する。役者が一分間笑い続けていたら、客にとっても役者が笑っているのは一分。叫んだら、劇場の空間自体が震える。これが生身の演劇の面白さだと思う。

 そしてもうひとつ大きく違うところ。毎日同じことを繰り返すということだ。

 映画などでもリハーサルなどはあるし、個人でセリフを返すことはある。

 だが舞台は何日も稽古を繰り返し、本公演が始まれば始めから終わりまでを毎日、多ければ一日に二度三度と繰り返す。

 何度も同じ人生を生き直すのだ。

 毎朝鏡に向かって「おまえは誰だ」と言ったり、毎日同じ時刻に泣いたりすると精神異常をきたすという話がある。

 舞台演劇というのは、言ってしまえばこの行為に近い。毎日自分ではない人になって、知っているはずの知らない人と話す。毎日毎日、自分ではない誰かの人生を繰り返し生きるのだ。謂わばループである。

 だんだん自分が誰かわからなくなって怖くなった、と役者をやめる人もいるくらいだ。

 ループものがSFやミステリのジャンルとして存在するほどだから、怖くなるのも当たり前だと思う。

 自分は素人演劇なので大したことはないが、それでも台本をもらってから本番が終わってしばらくあとまでは、

役のキャラクターが抜けなかった。常にもう一人の自分がいてその言動の癖が抜けなくなる。自分が喋っているようでいて、そうではない感覚なのだ。

 初恋をして裏切りに遭い、友を失い、大切な人を亡くし、自分も殺されるような人生を、二時間程度に色濃く凝縮した物語の中で毎日生きる。

 一言で言うなら、 壮絶 である。

 役者と言ってもいろんなタイプの人がいるから、板から降りれば素の自分に戻れてしまう人もいれば、私生活もずっと役に引っ張られるという人もいる。

 あまりにも凄まじい役を演じていた方がインタビューで前者のタイプだと答えておられて安心したり、反対に後者で、期間中はプライベートでも笑えなくなってしまったと仰っていてそわそわしたりしてしまう。

 役者は手の振り上げ方ひとつとっても、演じている役がこれまで生きてきた人生を考え、その人ならどう手を挙げるかを考えて演じてくれる。

 台本にない、舞台の上でも描かれないその人の人生を、役者は知っている。

 逆に言えば、そこまでストイックに役を追い求めてくれる役者を尊敬するし、惚れざるを得ない。

 目の前で人が笑い、叫び、涙を流す。剥き出しの人生を垣間見る行為。

 凄い舞台を見た時は、見終えた後ぐったりしてしまう。これは、人の人生を手出しできない状態で見守るしか無い、全知全能ではない神や守護霊のような視点で間近で見るからなのだと思う。

 この感覚が、観劇に魅力のひとつだと思っている。

 ひとりの人間の生き様が、板の上には二時間に凝縮されて載っているのだ。

花を摘むひと

 自分の親は、中々ロマンチストであった。劇的な再会からの、君なしじゃ生きていけない系プロポーズ。父の机の引き出しには、若い頃デートした時に撮影した母の写真が手作りの小さな木のフレームに収まって大事に仕舞われていた。写っている母の姿がまた、腰まであるストレートの黒髪に白いワンピース、頭には麦わら帽子。手には手作りのお弁当の入ったバスケットという完璧さだ。

 これが普通だと思って幼少時は生きてきたので、友達に自分の親のことを話すと度々「うちの親はそんなことしないよ!」と言われていた。

 ある時友達を連れて実家に帰り、母が留守番をして父が運転手役を買ってくれて近郊を観光案内したことがある。車を降りて散策しているときに、原っぱにユキノシタが咲いているのを見つけた。

 父は、

「可愛い花だ。お母さんに摘んで帰ろう。お母さん花が好きだから」

 と言って少し摘んで持ち帰った。

 私はそうだねと同意していただけだったが、友は、優しい、ロマンチック! と驚いていた。

 ユキノシタは父の手によって持ち帰られ、母の手によって小さな花瓶に生けられて食卓に飾られ、暫く私達の目を楽しませてくれた。

 私は花は勿論のこと、父も母も、可愛いと思うのだ。

食べ物の恨みとひとりっこの憂鬱

 父も母も兄弟がいたが、自分はひとりっこだ。

 食事やおやつは基本的には個別に盛られるが、大皿に盛られても特に自分の基本スタンスは変わらない。全体量から見てその場にいる人数で割り、自分の割当の分だけを食べる。

 だが、度々母に「あんたはのんびりしてるなぁ」と言われた。

 自分としては別にのんびりしていないし、どちらかと言えばせっかちな方なのだが。母曰く兄弟がいると食べ物は争奪戦になるから、万が一大皿で盛ってこられた日には率先して食べたい量を取皿に取って置かなければすぐになくなってしまうというのだ。

 個人的にはそれを聞いても、等分にするのが当たり前だと思っていた。たとえば三人いてロールケーキが一本あったなら三つにカットするし、もし始めから六切れにカットしてあった場合は二切れずつ食べる。

 余ったなら欲しいと言い出すとしても、そうでないのに人の分まで取る必要はないし、自分さえ多く食べられたらそれでいいなんてさもしいことを言い出す人なんていないと思っていた。

 そんなことはあまりに身勝手ではないのか。

 そんな考えだったので、まず数を数えて、自分がとって良い数をチェックした。パーティや会社の飲み会でもそれで困ることはなかったので、ずっとそれで通してきた。学生時代も女子校出身なせいか、等分でシェアするのが当たり前だった。

 しかしオフィシャルではなくプライベートな空間で男友達といる場合に不具合が出てくるようになってきた。

 彼らは、勝手に食べてしまうのである。二人でいてお菓子が三個あっても、「最後の一個はどっちが食べようか」とか「はんぶんこしようか」とかいう話は言い出さない。問答無用で二個食べるし、あまつさえ三個目に手を伸ばそうとすらする。

 四個のお菓子を前に三つ目に手を出すので、「四個だったから二こずつだよ」と指摘しても、そもそも自分がいくつ食べたのかを数えていない。数えているこっちが細かい、食いしん坊だと言われる始末だ。

 クッキーの詰め合わせを頂いたけれど自分は体調不良で寝込んでいて戸棚にしまっていたら、自分が逆の立場だったら新品の箱なので食べるとしてもまず開けていいか相方に確認するし、自分が食べていいのは全体の半分である。ひとつしか種類がないものは相方がどの味が食べたいか確認できるときに食べるべきなので手を付けない。

 だが彼らは平気で全部食べる。半分を超えるどころではない、ひとつも残さない。

「元々私がもらったのに」「食べたかったのに」「どうして一個も残しておいてくれないの?」

 と言ったところで、「おいしかったよ」と言うだけでごめんねなんて絶対に返ってこないのだ。

 こいつらどういう育ち方をしているのだ、と思ったが、よくよく考えるとみんな兄弟がいるのだ。

 母が言っていたのはこういうことなのだろうか。

 食べられない為に文字通り唾を付けたり、取皿に盛ったものまで取られたりするというシビアな闘いが繰り広げられるのは、昭和の漫画の世界だけではなかったのか。中々カルチャーショックである。

 あったら食べてもいい、という考えなら、名前を書いておくという古典的なことをしても運が悪ければ多分食べられてしまうのだろう。つまり戸棚にしまっておいてはいけないということなのだろうか。

 彼らにははんぶんこという概念はないのか。

 ひとりっこの自分には解せないのである。